結局、大学ブランド戦争の激化が「日大の悲劇」をもたらした

「悪質タックル問題」が問いかけるもの
佐伯 順子 プロフィール

アマチュアリズムを堅持している一部の大学と、実質プロレベルという次元の違う戦いとなりがちである現代の大学スポーツにおいて、今回の出来事はいつどこの大学でもおきかねない事態だったともいえる。

この事件が、少子化時代における私立大学の苛烈な生き残り戦略という社会的背景の産物であることを正確に理解したうえで、日本の大学スポーツ全体が、本来のアマチュアリズムの精神や"文武両道"の原点に立ち返らなければ、類似の出来事が再発する危険性は決して否定できない。

学生スポーツの「メディア・イベント」化という意味では、メディアの東京一極集中が加速するとともに、"地元"としての首都圏の学生スポーツのメディア露出が有利になり、首都圏以外の地方の大学にとっては明らかにブランド・イメージの構築に不利な現状がある。

その意味で、近畿圏の関学と、首都圏の日大の試合という今回のケースは、象徴的でもあった。

関西私学の歴史と伝統に対し、首都圏の私学は、大規模化や系列高校の増設で勝負する傾向があるが、日大学長の最初の会見においては、系列校の全国展開、学生、生徒数の多さを暗に誇るかのような発言が含まれ、キャンパスの大きさや学生数においては比較的小規模な関西私学に対する"物量作戦"によるマウンティングがうかがえた。謝罪の機会さえ、関学をけん制し、自学宣伝に利用するしたたかさがにじみでていた。

熾烈な首都圏の私立大学間競争のなかで、「スポーツの日大」のブランド力を堅持するために、勝利が至上命題となってしまった結果、いわば学生が"犠牲者"となったのが今回の案件である。

 

商業主義化がもたらす大学のガバナンスの歪み

ブランド力という用語が端的に示すように、商業化の波にさらされた大学が営利機関のようになってしまえば、ガバナンスの面でも、教員よりは実務経験のある職員が優位に立つ結果を招く。

"世間知らず"で"学者馬鹿"の研究者ではなく(本来は"真理探究"の任をもって自らを律すべき研究職であり、謙虚であれ、卑屈になる必要はないはずであるが)、職員、特に、現場経験のある職員に経営を任せないと、大学がつぶれる――そんな危機意識が一部の大学をして、職員主導へと舵を切らせてしまう。

しかし、その結果、"学問の府"であるはずの組織において、研究には素人の職員が意思決定のトップにたつという状況がエスカレートし、本来はあくまでも"学"が主であり、副次的活動であったはずのスポーツが、位置づけを逆転させ、スポーツのために大学に入るかのような本末転倒が生じる。

結果として、教育の場としての大学の社会的信用は失われ、自らの首をしめることになる。

日本の大学教育において、私立大学と国公立大学は、それぞれの特質を有することで、若者に多様な教育の選択肢を与え、特に私立大学はそれぞれの"建学の精神"を打ち出すことで個性をうたってきた。

だが、近年はそれが、前述のようにコマーシャリズムと融合し、なりふりかまわぬ宣伝戦略に大学人をはしらせ、"聖職"であるはずの教育という本来業務がなおざりにされる危険性がある。

広報担当者がジャーナリズムの現場出身者であるにもかかわらず、報道を抑圧したかのような"迷司会"ぶりにも注目が集まったが、これも現代社会における大学が抱える問題の象徴である。

日本の大学は近年、社会との接点を増やすという掛け声で、現場出身者を採用することがままあるが、必ずしも業界の第一人者が転職してくる保証はない。

逆に、業界で落ちこぼれた人材がリベンジ狙いで大学に活路を求めるという危険性も否定できない。

"社会人"という日本語に騙されてしまうが、企業に就職しても、実質は"企業人"や特定の"業界人"であって社会全体を知っているわけではない。大学が下手に"社会との接点"などを意識すると、大学における"学の独立"の核たる"学"が崩壊するばかりか、現場経験者が伝える"社会"さえ、学生にとっては中途半端なものになりかねないのである。