福沢諭吉を唸らせた、大橋佐平の「出版・印刷・流通システム」

大衆は神である⑨
魚住 昭 プロフィール

大野孫平曰く

佐平の甥で、東京堂の支配人を長年務めた大野孫平(おおの・まごへい)が『日本出版販売史』(橋本求著、講談社刊)のなかで出版取次業を始めた経緯を次のように証言している。

<(博文館以外の)ほかの出版社は、自ら地方の書店までも開拓するには手もたりないし、部数もそれほど出ていなかったからです。そこに目をつけたのが大橋佐平で、博文館以外の雑誌書籍を地方へ取次いでやれば、出版社はもちろん書店も喜ぶし、読者も喜ぶに相違ない、これはきっと商売になると思って省吾にすすめたのだろうと思われます>

雑誌を主軸にして書籍も発行する博文館の出版販売流通システムの浸透は、従来の書籍と雑誌の関係も変化させた。博文館にとって、一冊ごと宣伝して売らなければならない書籍に比べ、雑誌はいったん読者がつくと、安定的に売れるというメリットがあった。

当時は、書籍を母屋(おもや)とすれば、雑誌は廂(ひさし)みたいなもので、まあお客さんへのサービスのような気持ちで本屋は雑誌を取り寄せていたと思うのですがね。ところが、雑誌がだんだん発達してきたところへ、博文館というような革命的な発行所ができたものですから、地方の本屋でも博文館の雑誌は一応そろえておかなければならんというような趨勢になってきました。そして博文館以外の雑誌もそれにならってきまして、やがて母屋の書籍と廂の雑誌はその比重が逆になってきました〉(『日本出版販売史』・古参業者の証言)

 

日清戦争で大儲け

もうひとつ、博文館躍進の要因として忘れてならないのは日清戦争(明治27~28年)である。

博文館は日清戦争開始直後の8月25日に雑誌『日清戦争実記』(月3回刊)を創刊した。その第一篇は飛ぶように売れた。

好評の原因は初めて写真銅版を使用したことと、巻頭に主要人物の肖像写真を飾り、次に戦局地図を載せて、本文は戦争の経緯を詳述したことであった。あたかも戦場にいるかのような写真が使われていたこともあって、話題騒然となった(『龍(りょう)の如く―出版王大橋佐平の生涯』稲川明雄著、博文館新社刊)。

しかも1冊8銭という安さである。第一篇は結局、5万部増刷された、当時雑誌で1万部以上売れるものはほとんどなかったから爆発的な売れ行きといってよかった。結局、第一篇が23版三十余万冊、十三編までに三百余万冊が売れ、博文館に空前の利益をもたらした。

戦勝の波に乗った博文館は明治28年(1895)、総合誌『太陽』(2代目編集長が高山樗牛(たかやま・ちょぎゆう))や、巌谷小波(いわや・さざなみ)編集の『少年世界』、樋口一葉(ひぐち・いちよう)・田山花袋(たやま・かたい)・国木田独歩(くにきだ・どっぽ)ら一流作家たちが寄稿する『文芸倶楽部』を創刊して「出版王国」博文館の地位を揺るぎないものにした。

さらに佐平は、明治30(1897)年、甥の山本留次(やまもと・とめじ)に洋紙の販売会社・博進社を、明治32(1899)年、次女・幸子の夫、大橋光吉(こうきち)に博文館印刷所(のちの共同印刷)を設立させた。両社は短期間で業界のトップクラスにのしあがり、出版・取次・洋紙・印刷の4業種からなる大橋コンツェルンができあがった。この間、わずか十余年である。

死に臨んでも

明治34(1901)年11月、佐平は数えの67歳で亡くなった。その際にも変わり者らしい逸話を残している。

この年1月、佐平は元陸軍軍医総監の石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)宅を訪ねた。佐平と石黒は同じ越後育ちで、旧知の仲である。
「先生、胃がんという病気は、確かに胃がんという診断がついてから何ヵ月たつと死ぬものでありましょう?」

と、佐平が切り出した。石黒が「何故にそういうようなことを訊かれるか」と尋ねると、「何でもよいが、何ヵ月たてば死ぬものであるか訊きたい」と佐平は言った。

「まずたいがいの胃がんは手に触れるようになってから10ヵ月さ」

石黒の返事を聞いて初めて佐平は事情を話した。

帝大医科大学付属病院長の青山胤通(あおやま たねみち)ら二人の著名医に胃がんだと診断されたが、余命が何日あるか教えてくれないので石黒に訊きに来たのだという。

佐平は、

「そうすると10ヵ月ですか。それなら最長10ヵ月、最短5ヵ月ぐらいで死ぬつもりで今後の計画をせねばなりませぬ。これはなかなか忙しい。ありがとう。さようなら」

と言って、さっさと帰ってしまった。その思い切りのよさに石黒も、側にいた彼の妻も驚いた。

その年の9月の末に、また佐平が訪ねて来て、

「先生、いよいよ10ヵ月が近くなりましたが、まだ死なぬから、診断がはずれると、診察料を踏みますぜ(=踏み倒しますぜ)」

と、戯言(ざれごと)を吐いたが、すこぶる痩せていた。それからまもなく佐平は床についた。

10月末に石黒が見舞いに行くと、佐平は建設中の大橋図書館(佐平が念願としていた私立図書館。現在、その蔵書は三康(さんこう)文化研究所附属三康図書館に引き継がれている)の運営について協力を頼んだ後にこう言った。

「もうひとつお願いすることがある。私ももう死にかかっているから、死ぬ場合にはお医者様が皮下注射をするだろうと思うが、注射をして一年二年と生きられるものならば、私もその間に仕事があるから何べんでも注射してもらいたいけれども、一日や二日の命を延べるための注射は絶対に御免だということをお医者様に申して下さることを固く願っておく」

石黒はそれを主治医に伝えたので、主治医は佐平が死ぬとき一度も注射しなかった。

『佐平翁伝』はこの石黒の回想談を記したうえで「これは翁の臨終の際における態度で、子孫一同が眼の当たり見聞きしたのである。実に大病に遭うてかくの如くで、臨終に及んでこの如く安静の信念を持っているのは、少年時代から仏教、殊に密教の素養があった為であった」と結んでいる。

(つづく)