福沢諭吉を唸らせた、大橋佐平の「出版・印刷・流通システム」

大衆は神である⑨

上州の貧しい家から、東京帝大書記を経て、戦前日本を席巻するメディア・コングロマリット「大日本雄弁会講談社」を生み出した男——野間清治。

その豪快なビジネスセンスと、鮮やかな立身出世を賞賛する文献は少なくない。しかし彼の生い立ちやほんとうの人柄は、これまであまり詳らかにされてこなかった。

大河連載「大衆は神である」では、ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、日本の出版業界と近代社会の黎明の光と陰を追う。

第9回は、清治が会社を設立する二十余年前、日本初の出版コンツェルンを作り上げた男の半生を描く続編。大橋佐平はどのように成し遂げ、その人生を閉じたのか。

持つべきは出来のいい息子

この辺までくれば大橋佐平の出版事業が成功した理由のひとつがおわかりだろう。

そう、彼は事業のパートナーとして、自分の欠陥を補ってくれる、最適の息子を持ったのである。

佐平と親交のあった『国民新聞』社長兼主筆の徳富猪一郎(とくとみ・いいちろう=蘇峰・そほう)はこう言っている。

佐平の)成功の最大原因は何かと言えば、僕から見ると、博文館の創設でも無く、種々な雑誌の発行でも無く、新太郎氏という子を持ったことであると思う。佐平君は豪かったに相違ないが、彼の如き直情径行の人ゆえ、随分敵もあった。

また思うたことは何でも実行するときは、永い月日の間には、時に蹉跌(さてつ)も生ぜぬとは言い難い。然るに新太郎氏という子息があって、乃父(だいふ)の創めた事は、ことごとく整理して且つますます拡張して進む。あたかも徳川家康の二代三代に、秀忠と家光と出て徳川氏の覇業を堅めた如く、新太郎氏は秀忠と家光とを一身に兼ねた>

しかし、博文館成長の秘密はそれだけではない。

 

福沢の質問

佐平と福沢諭吉の興味深いやりとりが『佐平翁伝』に載っている。佐平は日ごろから福沢の識見に敬服していたので、紹介者を得て福沢宅を訪ねた。すると福沢は、佐平の顔を見るなり、こう訊ねたという。

「あなたは田舎から東京に出て、わずかの年月で今のように成功されたが、どうか私にその成功の商策を5分間でわかるように説明してくださることはできまいか」

佐平はただちに答えた。

「私には商策は何もありません。ただ薄利多売ということを主義とし、かつ常に売りさばき店(=大手書店と地方取次を兼ねたような業者)を尊重し、たとえば地方売りさばき店から100円の金を送ってくれば、ただちに140〜150円の品を送っておる。故に地方へは一度も集金者を出しませんが、送金はきわめて正確です。これが私の営業方針です」

福沢は「わかった。そこだ。なるほどあなたの商売が繁盛するのも道理だ」と言って、自著の実業論1冊を贈り、博文館でその本を再版することを許可したという。

このエピソードには出版資本主義の先駆者としての佐平の基本精神が表れている。すなわち販売と流通こそが出版の死命を制するというリアリスティックな認識である。

家賃3円80銭の長屋から出発した博文館は、創業5年で日本橋に本拠を構える、日本最大級の出版社に成長した。博文館が従来の出版社と異なるところは、全国各地の有力書店(=売りさばき店)と特約店契約を結び、雑誌を中心とした全国販売流通網を瞬く間につくりあげたことである。

さらに明治23年、佐平の二男省吾(しょうご)の義父・高橋新一郎(たかはし・しんいちろう)が上京して博文館の傍系会社・東京堂を創立した。東京堂は当初、雑誌・書籍の販売店だったが、翌年、新一郎が郷里の湯沢に帰るのと入れ替わりに省吾が経営を引き継ぎ、雑誌・書籍の販売に加えて出版取次業を始めた。東京堂はやがて「大取次」と呼ばれるようになり、日本の出版界の動向を左右する存在になった。