大日本国憲法下の「信教の自由」
「自葬の禁止」は1884年(明治17年)に規制が解かれる。
人種や宗旨にかかわらず、その土地で死んだ者(およびその土地に本籍を持つ者)は、そこに埋葬していい、ということになった。
地味な政令であるが、これがかなりわかりやすいキリスト教信仰“黙許”の政令である。ひとこともキリスト教に触れてないが、そういうことである。1884年(明治17年)はひとつのわかりやすい黙許の転換点である。
明治政府樹立当初の理念のひとつに「神道」を国の中心に置くことがあった(少なくとも狂信的にそれを目指す集団がいた)。
しかしいくつかの挫折があり10年で諦めざるをえなくなった。
その明治10年までは、政府首脳は(幕末の志士上がりの元勲たちは)、日本人のキリスト教信仰を認めるつもりはまったくなかったとおもわれる。あらたな宗教的理念を作り出そうとしているときに、そんなものを解き放つわけがない。
しかし神道国教化は失敗する。やがて民権運動も起こる。
明治10年代(1877-1886)に入り、社会は別のタームへ入りだした。
その状況で、キリスト教信仰は黙許されるようになったようだ。
民衆レベルでは、キリシタンであると告白すると、かなりの差別を受けたようだが(ときに宣教師が暴力的に襲撃されることも起こった)、政府が弾圧することは、なくなっていく。
1889年発布の大日本国憲法には信教の自由の条文がある。
キリスト教信者である、ということだけで、捕縛され処刑される可能性は低くなった。
「なくなった」のではなく「低くなった」というのは、この信教の自由の条文には留保事項があるからだ。
「安寧秩序を妨げす及び臣民たるの義務に背かざる限において」信教の自由を有す、とされている。日本国の安寧秩序を妨げたり、臣民の義務に背くような宗教であれば、断固、取り締まるというもので、そこにはキリスト教徒を想定しているようにおもえる。
明治政府の立場からじっくり見ると、常にキリスト教信仰は警戒されており、国家安寧の敵になる可能性を秘めていると見なされていただろう。
日本人とキリスト教の距離感
今回の世界遺産には、各時代の遺産が登録されている。
鎖国以前の島原の乱の戦場である「原城跡」がもっとも歴史的に古い。ただ、この時代のキリシタンは「棄教しなかった者たち」であり、潜伏キリシタンとは少し違う。
鎖国時代(1639年から1853年)が、まさに潜伏キリシタンの時代である。この時代の遺物を中心にキリスト教遺産が選ばれている。しかし、見た目は地味である。
たぶんその地味さゆえに、幕末開国期(1853年から1867年)、明治禁教期(始まりは1868年、終息は1880年代から1890年代)の「西洋ものらしい文物」が取り入れられている。わかりやすくいえば「古い教会堂」である。
目立つアイコンが欲しいからだろう。
おそらく、どこまで行っても、キリスト教文化は日本人にとって異文化なのだ。
観光施設の目玉としてシンボリックな「教会群」を何とか入れたい。
ただそうしたことによって「潜伏キリシタンの遺産」というイメージがわかりにくくなってしまった。繰り返しになるが、潜伏と教会は、基本、両立しない。
そのあたりは、世界遺産センターの指示と、地元の思惑とが、少し行き違っている感じがする。