ひねり出された苦肉の策
じつは、明治政府がとった立場はダブルスタンダードだった。
外国に対する態度と、日本人に対する態度を変えていたのだ。
簡単に言えば「日本人に向かってはキリスト教信仰は禁止」「外国人に向かっては、キリスト教に対して宥和的態度をとりはじめたかも、と勝手に誤解したとしても、敢えて否定しない」という面倒な両面である。
日本の国際的な評判を落とさないための苦肉の策である。
五榜の掲示を撤去したことによって、キリスト教宥和に動き始めたと勝手に誤解した外国人たちは、あえてそのままにしておいた。それは違う、まだキリスト教信仰は許してない、とこちらから出向いて通告することはしなかった。それは世界相手に喧嘩を売るようなものだからだ。
日本人に向けては、「日本人のキリスト教信仰は今後も認めない」という態度は崩していない。おそらく明治6年という時期に、日本人のキリスト教信仰を認める、などという衝撃的な発表をすると、日本国中が大きく動揺し、政府転覆勢力に利用される、という恐れを抱いたのだろう。
理由はどうあれ、200年間、犯罪者だと指定していた切支丹をいきなり解き放つと聞かされたら、ふつうの庶民はただ驚いて怖がるだけである。思想的背景まで考えて喜ぶ庶民が多かったとはおもえない。だから切支丹禁制は継続である。
そういうダブルスタンダードである。
国際的立場の弱い国の政府判断としては、しかたのないところだったのだろう。正論だけを通したり、本音をぶちまけてしまっては、政治は成り立たない。苦しい政治判断である。
この前年、1872年(明治5年)には「自葬の禁止」を通達している。
自葬の禁止というのは、仏式か神道式でしか埋葬をしてはいけないというものである。日本人のキリスト教式の埋葬は「自葬」とされ、たびたび捕縛されている。明治政府による明確なキリスト教信仰禁止(信仰は犯罪とする)という告知である。
明治6年に、その自葬禁止の令は継続中である。
日本人には、キリスト教信仰を許さず、目立つ布教などは取り締まっていた。
そして黙許へ
1875年(明治8年)には、函館でのキリスト教布教が妨害されたので、イギリス領事が抗議したところ、外務卿(つまり外務大臣)寺島宗則はこう答えている。
「耶蘇教(キリスト教)はいまもって我が政府の制禁するところであって、いまだこの制禁を廃したことはない」
こうイギリス領事へ明言している。
1875年になってもキリスト教信仰は「解禁」されたとはいえない。
外務省のトップがそう通告し、それが記録として残っている。
何度か、キリスト教解禁を告知すべし、とキリスト教国側から要求されたことがあるが、明治政府は絶対それに応じなかった。
ついぞ「日本人のキリスト教信仰を認める」とは一度たりとも告知していない。
ただ、取り締まらなくなっただけである。つまり黙許である。
だから、日本国内でキリスト教信仰が許された年は、明確には特定できない。
これが歴史事実に対する謙虚な態度だとおもう。
あまりテレビで「1873年キリスト教解禁」という文字を出さないほうがいいとおもいます(インターネットや雑誌でもですけど)。
それは、私たちは、自国日本のキリスト教の歴史についてさほど関心を持っていない、と表明しているようなものだ。キリスト教徒に対して優しい気持ちで言っているようでいて、じつは真逆の態度になっている。