# キリスト教

「潜伏キリシタン」世界遺産へ…日本人がしがちな誤解を解いておこう

これだけは言っておきたい
堀井 憲一郎 プロフィール

キリスト教は「解禁」されていない

秀吉が1587年に布告した伴天連追放令に始まったキリスト教禁教の流れは、徳川幕府も継承し、1610年代に禁教令を次々と出し、1637年の島原の乱以降、国内のキリスト教徒を一掃する政策を打ち出した(俗に鎖国政策と呼ばれる「キリスト教徒の殲滅施策」である)。

明治政府もその流れを継承した。

キリスト教信仰は引き続き禁止。

ただ、徳川時代とは状況がかなり違う。

なにせ、横浜や築地あたりに限られるにしろ、異人さんがそこにいるのである。

キリスト教徒が我が物顔で歩いてる時代のキリスト教禁教は、それまでと変わらざるをえない。

またキリスト教を信じる日本人を捕縛し、牢に放り込んでいるのを知った西洋列強は、強く非難しはじめた。欧米を歴訪している政府高官たちから、キリスト教禁止を緩めないと、条約改正がうまくいかないと報告もあり、政府も譲歩していく。

しかし明確に「これから日本人がキリスト教を信じても、罪とはしません」と国民に向かって明言したことはついになかった。ずっと「黙許」でしかない。

日本のキリスト教に多くの人が興味ないのはしかたがないことであるが、そのポイントだけは押さえておいてほしい。

明治政府は発足時に「キリスト教信仰は禁止」と明言したあと、その禁止を取り消すことは一度もなかった

つまりキリスト教信仰解禁の年、というのは、政府の公式発表を追う限り、日本史上、存在していないのである。

今回の潜伏キリシタン世界遺産への報道では、「1873年にキリスト教解禁」という文字が見えた。

どうやら、それが歴史的事実という認識があるようだ。

残念ながら、錯誤である、というしかない。世界キリスト教史に、わざと錯誤されるように流された情報であり、日本史としては、間違っている、というべき事項である。

少なくとも「解禁」という事実はない(日本人がなぜ、日本史側から追わないで、世界キリスト教史から追おうとするのか、その態度も問題だとおもうが)。

 

明治政府の公式見解

1873年の解禁と言われるのは「五榜の掲示の撤去」のことである。

「五榜の掲示」は明治政府の民衆への五つの禁令である。

「五輪の道の遵守」「徒党して強訴や逃散することの禁止」「切支丹邪宗門の禁止」「攘夷行為の禁止(外国人への暴力禁止)」「郷村からの逃散禁止」

これは新政府樹立のとき(戊辰戦争の真っ最中)に打ち出された新政府の禁令である。徳川時代と同じく、高札に書かれ、辻々に立てられた。

この五榜の掲示の立て札が1873年(明治6年)に撤去されたのだ。

各キリスト教国は、これにて日本国はキリスト教信仰を認めたとして、自国へ打電した。

しかし、明治政府の見解は違う。

この撤去のあと、イギリスの新聞が「日本政府はキリスト教徒を処罰する法典を廃棄した」と報じたのを見た外務省が驚き、太政官政府にこれは本当なのかと問い質した。 

政府の回答は「高札の文面は人民があまねく熟知したので、取り除いたまでである。もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」というものであった。

高札での告知では、これからあらゆる分野の新法典を公布していくのに追いつかないので、告知スタイルを変えただけで、書かれた内容は今後も続行である、というのが、政府が行政機関に告知した内容である。

これが明治政府の公式見解だというしかない。

1873年の日本政府には「もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」のである。