父が医者だからといって、必ずしも恵まれているわけではない話

覆面ドクターのないしょ話 第22回
佐々木 次郎 プロフィール

ドクター・パパの不思議な衛生感覚


読者の皆様、職場に様々なダイレクトメールが届きませんか?

医者のもとに届くダイレクトメールも色々ある。

医学雑誌の定期購読を勧めるものや、医療講習会の案内などだ。医療以外では、マンション経営、ゴルフ場、資産運用のダイレクトメールはよく届く。

医学部を卒業して10年を過ぎた頃から開業の案内がやたらと増える。どうして卒後10年だと業者にわかったのか? まぁ、その程度の情報なら業者はいくらでも持っているだろう。

 

だが、私の友人は、バツ1になった翌日に、婚活の会社からダイレクトメールが届いたという。こうなると業者の持つ情報力は恐ろしい。

私の場合、ダイレクトメールで一番多いのが医療系の業界新聞である。

「高血圧治療最前線」「アレルギー治療のブレイクスルー」「骨粗鬆症の新概念」などなど。なかには勉強になりそうな話題もあるが、ほとんどが関心のない情報なので、チラ見して1分以内にゴミ箱行きになる。

私の育った家庭では、これらは古新聞として再利用されていた。

私の父は普段穏やかだったが、衛生に関しては非常にうるさかった。

たとえば、不特定多数の人が出入りする場所で物を落とすと父は豹変した。

特に、駅のホームでは絶対にものを落としてはいけなかった。

あるとき、本を落として、「やばい……」と思った瞬間、すかさず「地震・雷・火事・親父」の雷がズドーンと落ちてきた。

「駅で本を落とすなって言っただろ! ここがどれだけ汚いところか、わかってるのか!」

炊飯器から茶碗にごはんをよそったとする。「ちょっと多かったな」と思って、しゃもじで少しすくってお釜に戻したりすると、これも父に怒られた。

「お釜の中のごはんは、高温の蒸気で熱せられているから清潔だが、半清潔に過ぎない茶碗に触れたごはんは既に不潔である。それを元に戻すとは何事か!」

という理屈である。

私は子どもながらに何度も反論したかった。

「茶碗によそったごはんが不潔なら、それを食べているお父さんは清潔なんですか?」と。

まるで潔癖症のような父であったが、そういう父を囲んでの食卓の風景はどんなものであったか? 実は、衛生のことを除けば、いたって穏やかな食卓の風景だった。

私は幼い頃、よく味噌汁をこぼした。こぼれた味噌汁を飲むなどという不潔な暴挙を冒さない限り、軽く注意されるだけだった。

「テーブルが汚れるから、これを使いなさい」と父は言って、古新聞を敷いてくれた。

だが、それはただの新聞紙ではない。医療系の新聞なのだ。茶碗越しに見えるのは、象皮病の症例写真であった。

象皮病とは、フィラリアという寄生虫がリンパ管に詰まって生じる病気のことである。リンパ浮腫を起こすので、下肢が象の脚のように腫れあがり、患者さんには失礼だが、何ともグロテスクな所見を呈するのである。

西郷隆盛もこの病気に罹り、股が腫れあがって馬に乗れなかったと言われている。こういう症例写真をお椀や皿の下に敷いて食事するのは、年端のいかない私の食欲を減退させた。

不思議なことに、私は小学校に入る前から象皮病という病気を知っていたが、ドクターになってから象皮病の患者さんを一度も診たことがない。

象皮病患者の足と寄生虫「フィラリア」(photo by istock)

そういった症例写真は枚挙に暇がなく、全身カビだらけになった皮膚病の写真だったり、ひどい水虫の足の写真だったりした。

「駆虫薬を飲んだら、肛門から長さ1 mもある寄生虫が出てきました」という写真もあった。しかも寄生虫が肛門から「こんにちは」している写真が左側に、摘出後の写真が右側に掲載されていた。まさに「劇的ビフォー・アフター」だ。

不衛生なことに関しては、あれほどうるさい父が、これらの感染症の写真には全く無頓着だった。グロテスクな写真であっても、父にとっては日常診療のありふれた一風景だったのであろう。

その日、私は珍しく味噌汁をこぼさずに食事を終えた。

「この新聞、まだ使えるからシロの皿の下に使おう」と言って、父は古新聞を飼い犬のシロの皿の下に敷いた。新聞には、糖尿病患者の腐敗した足の写真が載っていた。

シロは顔色一つ変えず、至近距離まで顔を近づけ、ムシャムシャと勢いよく夕ごはんを食べた。ごはん粒の一部が腐った足の写真の上にこぼれた。私にはごはん粒がウジ虫に見えた。シロは写真の中の腐った足をペロペロとなめながら、舌で器用にごはん粒を食べた。

「シロ、おまえはいいなぁ、何でも美味しく食べられて……。でも、俺は……」

シロは私に振り向きもせず、一心腐乱、いや一心不乱に食べていた。

(初出・小説マガジンエイジ)