「新幹線殺傷」「秋葉原通り魔」「ブロガー刺殺」3つの事件の共通点

人を刺さないための「読解力」とは…
伊藤 氏貴 プロフィール

そしてカリスマブロガーも刺された

こうした訓練は誰にとっても必要だ。自分は人を刺そうと思ったことなどないから関係ない、とは言えない。

仮に人を刺そうと思ったことが人生で一度もない、という幸せな人間がいたとしても、自分は関係ない、と言い切ってしまうなら、人を刺さずにいられない人間の気持ちを「読む」力を不要だとして放棄することになるからである。自分は刺さない側だと自信を持てるとしても、刺される側にならないためには、刺す者の気持ちが読めた方がよいだろう。

 

この原稿を書いているまさにさなかに、ネット上のことばのやりとりが発端となって、というか、それだけが原因で相手を刺殺したという事件の報が入ってきた。お互いが相手のことばの裏にある気持ちを「読む」ことができないのであれば、社会からこれまでのような惨劇を拭い去ることはできない。

福岡ブロガー殺人の発端になったセミナーの告知

私は、刺す側と刺される側とに生まれつきの根本的な差があるとは思わない。自分のことばが「読んで」もらえない、という思いが秋葉原事件の引き金を引いたように、「読解力」が弱いゆえに他者に伝わることばを紡ぎえず、「誰にも理解されない」と思うときに、誰しも人は刺す側にまわりうる。

「読む」ことと「読まれる」こととは表裏一体である。刺す側にまわらないため、また自分の周囲に刺す者を生み出さないために、誰しもがつけるべきなのが、相手のことばを深く読む「読解力」である。

しかし一方で、祖父母からは切り離され、親は忙しく、しかも学校現場からは文学が大幅に削られようとしている。こうした状況下で、他者に対する「読解力」をどう養っていけばいいのかは、喫緊かつ大きな課題となるだろう。

1862年のロンドン万博から「クールジャパン」に至るまで、日本は海外に対して「日本的なるもの」を売りにしてきた。その内実にあたる日本的な「美」とはいったい何なのか。美意識をめぐる概念を審問に付す、戦略的文藝批評。