人はいつから、相手を疑いながらモノを喋るようになったのか

言葉の自己矛盾をときほぐす
三浦 雅士

この問題が厄介なのは、つねに自己言及の逆説を引き連れてくるからであり、谷川が鸚鵡返しに「今もうそをついているわけ」と切り返しているのもそれだ。谷川もまた、当然、敏感なのである。

言語は普通、聴覚の問題として語られることが多い。話し言葉は聴覚の領域に配されるからである。だが、言語が基本的に嘘を特性としていることは、それがじつは視覚の領域に配されるべきものであることを示している。

視覚の特性、光の特性は、それが嘘をつくということにほかならないからである。距離が嘘のもとなのだ。

ラカンはそのセミネールのひとつをルアーすなわち疑似餌に割いているが、生命が視覚を獲得してカンブリア紀に爆発的な多様化を惹き起こしたことからも明らかなように、当然のことをしているのだ。

 

眼は基本的に騙されるものとしてあるのであり、動物は、外見に騙されまいとしてそれを疑うこと、すなわち意識なるものを発明してしまったのだ。

意識は孤独の始まり。人間はその延長上に言語を獲得するわけだが、それこそ孤独の発明なのである。孤独は、嘘をつくこと、騙し騙されることの地平のうちにあるといっていい。自分に嘘をつくことが自分自身のはじめなのだ。

宗教も商業も同じ仕組のうちにある。商業がさまざまな社会で忌避されたのは、利潤とは騙しにほかならないと思われたからである。同じ仕組を持つ世界宗教が商業とともに展開するのは必然だったといわなければならない。

『孤独の発明 または言語の政治学』の主題が、半世紀前の谷川と武満の対話にまでさかのぼることに我ながら驚いている。

読書人の雑誌「本」2018年7月号より

関連記事