講談社の祖・野間清治が「人生の行き先」を見出した瞬間

大衆は神である⑦
魚住 昭 プロフィール

没落士族の親たちは……

その疑問を解くカギは、明治のはじめに刊行された福沢諭吉の『学問のすゝめ』にありそうだ。以下は文芸評論家・前田愛の名著『近代読者の成立』(筑摩書房刊)の一節の要約である。

――ふつう『学問のすゝめ』は学生・書生に多大の影響を与えたと思われているが、実はその親たちに及ぼした影響も無視できない。官途に就いた少数の仲間はともかく、いわゆる没落士族の親たちは、家名再興の希望をその子弟に託さざるを得なかった。が、彼らの伝統的な価値観念が維新によって一挙に崩落してしまったかぎりで、次の世代に伝えるべき人生のガイダンスを、具体的には何一つ用意することができなくなっていた。

 

たとえば高崎藩士であった深井英五(ふかいえいご)(後の第13代日本銀行総裁)の父親は、学問や立志の方向について指針を示すことはほとんどなく、母親の方が「えらくなって身を起せ」ということを口癖のようにして彼を激励した。

あるいは「乗馬術だけ十分に仕込めば祖先に対して申し訳はたつ」と、意地を張りとおし、息子に学問を授けようとしなかった父親もいた。

学問による立身出世の可能性を啓示した『学問のすゝめ』はこのような親たちに導きの糸を与えたにちがいなかった。この世代の受け止め方を典型的に示している例が、作家・榊山潤(さかきやまじゅん)の「田舎武士の眼」に描かれている。主人公は実在の人物で、二本松藩(現在の福島県二本松市、官軍に対抗する奥羽越列藩同盟に参加)の元藩士。この元藩士は、十八歳のときに明治元年の奥羽戦争を迎えている。榊山はこう述べる。

私がはじめてこの人(=二本松藩の元藩士)にあったとき、この人は福沢諭吉の『西洋事情』の一部と『学問のすゝめ』の第二篇までをきれいに写しとった古びた半紙判の何冊かを見せてくれた。

……東京に出て邏卒(らそつ)(=明治初期の巡査)になっていたころ、人に借りて書き写したものだと言ったが、月給(註:七円五十銭)の半ば以上を弟の学費にしたのも、これらの書物の影響に相違ない。この人の福沢諭吉に対する傾倒はひと方でなかった。生きるために屈辱を忍び、敵の最下層の食をはんだ日々が、楽しかろうはずもない。……この人は邏卒の間でも、とるに足りない賊藩の徒であった。こういう生活環境に、光を与えてくれたのが、『西洋事情』や『学問のすゝめ』であった。(『日本の歴史』10 読売新聞社刊)

『学問のすゝめ』の「人は同等なる事」という主張にヨリ敏感に反応したのは、農工商の三民ではなく、薩長土肥の士族から屈辱を余儀なくされたその余の士族であった。福沢の説く実学の効用を、その屈辱的な生活から体験的に把みとったのも薩長土肥以外の士族でなければならなかった――。

清治の両親も同じような、切羽詰まった気持ちだったろう。

一向身が入らない

しかし、当の清治は遊び呆けた。せっかく入れてもらった塾もよくサボった。当然ながら、高等小学校の成績もあまりふるわなかった。本人によれば、クラスで「真ん中よりかは少し上」。幼馴染に言わせれば「中辺よりちょっと下」で「四十人あれば二十五人くらいのところ」だったという。

本人の回想。

〈あらゆる悪戯をやる。将棋の稽古も高等一年ではじめる。五目並べでも同じ年齢では誰にも負けない。小さくも強いというて大人などとやって始終ほめられるというわけで、学問のほうは一向身が入らない。身を入れてやればきっとできるだろうなんということを先生や友達に言われて、やろうかなどと思ってちょっと二、三日やるようなことがあってもすぐまたやめてしまう。「ただいま」と言って学校から帰って荷物を家に放り込むともう私の姿が見えない。本当にしょうのないといったようなことを母がよく口癖にしておりました〉

しかし、清治はこのころ自分の人生の方向性をおぼろげながら見出している。

担任教師の一言と八犬伝熱

そのきっかけを与えてくれたのは、高等小の3年から担任教師になった森九郎である。

この年、つまり明治23年(1890)、第1回帝国議会の開会にともない、各地でさかんに演説会が開かれた。演説(演舌)はもともと、明治の初めに福沢諭吉が『学問のすゝめ』で欧米のスピーチをそう訳し、将来の国会開会を見すえながら必要性を訴えたのが始まりだった。

その後の自由民権運動で各地に広がり、植木枝盛(うえきえもり)や馬場辰猪(ばばたつい)(いずれも土佐出身の自由民権運動家)ら若い雄弁家が続々と現れた。演説は青年が手っ取り早く世に出る手段として注目され、急速に普及していった。

清治らも担任の森に頼んで、討論会を開いてもらい、「牛と馬ではどちらが有用か?」「生徒に掃除させることの可否」といったテーマで議論をたたかわせた。