陰謀論ばかり語る「迷惑な人」を一蹴する方法

こうすれば、ぐうの音も出ない

「本能寺の変」の陰謀説

書店に行くと、「学校で教えられていた歴史は間違っている」、「日米関係の真実が隠されている」、「秘密結社が世界を支配している」などという陰謀論の本が多数並んでいる。

陰謀論とは、ある出来事について、世の中で一般に認められている通説の背後には陰謀や謀略があるという見方だ。陰謀論を謀略論と言い換えてもよい。

呉座勇一氏の新書『陰謀の日本中世史』は、日本中世史から陰謀論になりやすい出来事を取り上げ、それを実証性と合理性によって徹底的に批判しているところに特徴がある。具体例としては、明智光秀が織田信長を倒した「本能寺の変」(1582年)に関する考察が興味深い。

〈鈴木眞哉氏と藤本正行氏は共著『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(二〇〇六年)で、足利義昭黒幕説やイエズス会黒幕説など各種黒幕説を批判した。特に重要なのは、多数の黒幕説に共通する特徴を抽出した点にある。以下に紹介する。

(1)黒幕が事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀を勧誘・説得したかの説明がない(光秀が同意せず、逆に信長に通報する恐れがある)。

(2)実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明がない。

(3)光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がない。

(4)黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援していない事への説明がない。

(5)決定的なことは、裏付け史料がまったくないこと。

このうち(3)と(5)については、怨恨説や野望説などの古典学説も抱える弱点なので、黒幕説を責めるのは酷かもしれない。(4)については、何をもって「支援」とみなすかという議論は水掛論になりがちなので、ここでは触れない。

だが(1)と(2)は決定的に重要である。

黒幕説は、明智光秀が早い段階から謀反を計画しており、他の勢力と連絡を取っていたという理解が前提になっている。この場合、実行部隊を統括する光秀は謀反の決行時期を事前に協力者に伝える必要がある。

だが、実行時期を事前に決定、連絡するのは非常に困難なのである。織田信長を討つには、織田家の有力武将が皆、畿内から出払っており、光秀だけが畿内周辺で大軍を統率しているという状況が必要である。

ところが毛利氏と戦う羽柴秀吉、上杉氏と戦う柴田勝家はともかく、他の武将が遠隔地に派遣されたのは比較的最近である。(中略)

畿内に軍事的空白が生じ、光秀だけが畿内周辺で大軍を動員しているという状況が生まれることを事前に予見することは不可能なのである。

仮に光秀が信長に不満を持っていたとしても、五月十七日以前には、事態打開のための現実的な選択肢として謀反を思い浮かべることすらできなかっただろう〉

説得力に富む説明だ。光秀が謀反を起こす環境が整ったのは偶然の要因によるところが大きい。

黒幕はいません

〈安土で織田信長の歓待を受けた徳川家康は、信長に畿内見物を勧められ、五月二十一日に上洛し、二十七日に堺に移った。

家康の接待役として共に堺へ赴くつもりだった信忠は予定を変更して、父信長を迎えるため京都に留まることにした。この時点で光秀が挙兵できる状況が初めて整った。

ルイス・フロイスがイエズス会に提出した報告書に見えるように、「彼(光秀)は信長ならびに世子(信忠)が共に都に在り、兵を多く随えていないのを見て、これを殺す好機会と考え、その計画を実行せんと決心した」のである。

しかもこの状況は光秀や「黒幕」とやらの力で創り出せるものではなく、幸運、強いて言えば織田信長の油断によって条件が満たされた。したがって、突然訪れた好機を逃さず決起したという突発的な単独犯行と見るべきであろう〉