なにかと誤解されやすい海賊についての「本当のこと」

日本海賊の地を歩いて分かった
山内 譲 プロフィール

それを現在も目に見える形で示しているのが、曲遺跡である。同遺跡は、日島の南端にのびる砂嘴上に位置し、そこにはおびただしい数の石塔群が残されている。

様々な材質の石材を使った中世様式の五輪塔、多様な形をした自然石の石塔、そしてなかには近代の墓石も混じっている。ここは、中世から近代まで続く壮大な葬送の場というべきところで、そのような大規模な葬送の場の背後には、当然ながらそれ相応の集落が存在していたはずである。

 

さらに注目すべきは、石塔群のなかには、若狭国日引(福井県高浜町)産の石材を使ったものもみられることである。日引産の石材は、各地の石塔の材料として広く使われたことで知られる。どうやら日島は日本海と西海を結ぶ広範な交易にかかわっていたらしい。

曲遺跡の端に立って東シナ海を眺めていると、沖合を行く様々な船の姿が目の前に浮かんでくる。

独自の一族結合を背景にして活動し、五島列島の沿岸を頻繁に行き来する松浦党の船々、何年かに一度日島に立ち寄ったのち、元や明に向かって船出していく諸勢力の貿易船、定期的に日本海や九州各地から様々な物資を積んでやってくる交易船、そしていったん難破船が出るとそれに群がり寄る近隣の人々の粗末な小船など。

ここは、東シナ海に向かって開けた、西海の海の民の拠点だったのではないだろうか。

「熊野海賊」最大の軍事作戦

目を西海から列島の東に転じてみよう。紀伊半島南端の熊野地方は、熊野海賊とよばれる勢力が南北朝時代を中心に活動したところである。

熊野海賊の主要な活動舞台は熊野灘沿岸であったが、ときには瀬戸内海や九州まで進出することもあった。熊野海賊は瀬戸内各地の諸勢力との間で海上ネットワークとでもよぶべきものを形成し、それを活用して北朝方の海上勢力と戦ったり、南朝方の人物の移動に協力したりした。

そのような熊野海賊の最大の軍事作戦が、西瀬戸内の海の領主忽那一族との連携によって実施された南九州薩摩への進出であった。

海上で戦う藤原純友(右の舟の扇を持つ人物)海上で戦う藤原純友(右の舟の扇を持つ人物)楽音寺所蔵

これは当時南九州にいた懐良親王の活動を支援するためのもので、1347年5月には、「四国中国海賊等三十余艘」が九州の東岸を走り抜け、6月には「熊野海賊以下数千人」が薩摩の北朝方勢力の拠点東福寺城(鹿児島市)を激しく攻撃したことが知られている。

このような熊野海賊の中心勢力であったと考えられるのが小山氏である。

その小山氏の本拠西向浦(和歌山県串本町)は、古座川の河口に位置している。古座川は、熊野の山中から流れ出して紀伊半島の南端潮岬の東方で熊野灘に注ぐ川である。

一定の水量がある河川の河口には、川湊が発達しやすい。河川が運んできた砂が海岸流の影響を受けて砂嘴が発達し、波静かな海面ができるからである。

そしてそのような場所は、河川水運と海運の結節点となり、人や物が集まりやすく、町場が発達する。西向浦もそのような川湊の一つである。

現在は、かつての川湊の面影は失われているが、近くには小山氏の屋敷跡と伝えられる所があり、その背後の丘陵は城山とよばれている。その城山は、古座川河口の湊やその沖合を一望できる立地である。

このような一定の川幅と水量を有する河川、その河口に開けた川湊、そして川湊や沖合の航路を監視するために近隣の丘陵上に設けられた城。このようないわば三点セットからなる景観を熊野灘の沿岸各地で数多く見ることができる。

これが熊野海賊がつくりあげた拠点の景観であったといえよう。