初戦のコロンビア戦のピッチに立つのは、どの世代が中心になるのか(photo by gettyimages)

<データで判明>日本代表のメンバー構成「こんなにバランスがいい」

五輪代表メンバーとの関連が面白い
今回のロシアで、日本代表にとっては初出場から6回目となるワールドカップ。思い返してみれば、この6大会すべて、2年前の五輪に出場しているのだ。初出場となった1998年のフランス大会の2年前、日本は1968年のメキシコ五輪以来28年ぶりに五輪出場を果たした(1996年アトランタ五輪)。W杯各大会の日本代表メンバーは、当然、その前の五輪代表メンバーが選ばれているのだが、戸塚啓氏がその比率を調べてみると面白い結果が現れたそうだ。どうも、今回の構成比率は、ベスト16に進んだ南アフリカ大会のメンバー構成比率と似ていなくもない……。

アトランタ五輪での経験が代表を底上げした

サッカーW杯は4年に1度の開催だが、その中間年には五輪が開かれている。2年に1度のサイクルで、国際大会が行われているわけだ。五輪の強化を充実することは、W杯にもつながっていく。

サッカーの男子五輪競技は、23歳以下の選手に出場資格がある。年齢制限のないオーバーエイジも3人まで出場できるが、18人の登録メンバーのうち少なくとも15人は23歳以下の選手たちだ。

 

代表チームで定位置をつかんでいる選手はもちろん、所属クラブで定位置を確保している選手も決して多くない世代である。10代後半から国内リーグで経験を積んだり、自国のリーグ以外でプレーしたりする選手が珍しくないサッカー強国と日本との、大きな違いがそこにある。だからこそ、五輪代表の枠組みでの強化が重要になってくる。

1996年のアトランタ五輪に、日本は28年ぶりに出場した。サッカー王国ブラジルを破る世紀のアップセットを演じたチームからは、GK川口能活、DF(MF)服部年宏、MF中田英寿、FW城彰二の5人が、2年後のフランスW杯に出場している。五輪のメンバーからは外れたものの、GK楢﨑正剛、DF中西永輔、MF平野孝もアトランタ世代だ。

そのなかでも、川口、中田英、城の3人はW杯で全3試合に先発起用された。チームの柱となるGK、攻撃的MF、FWのセンターラインを、23歳以下の選手が担っていたのである。また、中西もアルゼンチンとの第1戦とクロアチアとの第2戦にスタメンで出場している。アトランタへ向けた強化と五輪での経験が、日本代表の底上げを促していったのだ。

アトランタ五輪のピッチで指揮棒を揮った中田英寿は、2年後のフランスでも同じ役割を果たした(photo by gettyimages)
28年ぶりの五輪に出場した川口能活は、W杯2大会でゴールマウスを守った

彼らアトランタ世代は、日本サッカーの歴史の扉をこじ開けたとの自負を胸に抱いていた。フランスW杯出場はひとつの通過点であり、4年後のW杯へ向けて海外進出を視野に入れていく。

海外に雄飛したシドニー五輪世代

フランスW杯後に日本代表監督となったフィリップ・トルシエは、五輪代表と日本代表を密接に結びつけた。このフランス人指揮官は五輪代表の監督を兼務し、2000年のシドニー五輪で采配をふるったのである。さらに遡れば、1999年のワールドユース(20歳以下世界選手権)でも監督を務めた。

ナイジェリアで開催されたワールドユースで、トルシエ率いる日本は準優勝の快挙を成し遂げる。このチームで主力を担った小野伸二、稲本潤一、高原直泰、中田浩二、小笠原満男らは、2000年のシドニー五輪を目ざすチームへ引き上げられていった。

シドニー五輪の出場資格を満たす世代には、中田英、中村俊輔、宮本恒靖、松田直樹らがいた。中田英と松田はアトランタ五輪の経験者であり、中田英はフランスW杯後にイタリア・セリエAのペルージャへ移籍し、日本代表でも揺るぎないエースとなっていた。

ワールドユース準優勝のメンバーを高く評価していたトルシエは、彼らに中田英らの世代を加え、2002年の日韓W杯を見据えたメンバー構成でシドニー五輪へ挑む。アトランタ五輪では採用しなかったオーバーエイジ枠も使い、24歳のGK楢﨑とDF森岡隆三、26歳のMF三浦淳宏を招集した。

日韓W杯の開幕戦のスタメンを見ると、GK楢﨑、DF松田、森岡、中田浩、MF戸田和幸、稲本、小野、明神智和、中田英、FW柳沢敦と、シドニー世代と同大会のオーバーエイジで10人を占める。森岡に代わって出場した宮本、第3戦で先発した市川大祐も同様で、23人の登録メンバーのうち14人がシドニー世代と同大会のオーバーエイジなのだ。

フランスW杯後に欧州のクラブへ移籍した中田英、城、川口らに続けとばかりに、稲本や小野が日韓W杯を前にヨーロッパのクラブでプレーしていた。選手の日常となるクラブでより高いレベルを経験する選手が増えたことも、日韓W杯でのベスト16入りにつながったと言える。

トルシエが日本を去った2002年、五輪代表の指揮官には山本昌邦監督が指名された。ターゲットは2年後の2004年に開催されるアテネ五輪である。一方、日本代表はブラジル人のジーコのもとでリスタートを切っていた。

山本監督は当初、日本代表コーチの肩書も持っていた。しかし、ふたつのチームの強化スケジュールが重なってしまうため、五輪代表監督に専任することとなる。

日本代表は日韓W杯のメンバーが中心となっていた。2002年当時に23歳から24歳の選手たちは、まだまだ伸び盛りである。世代交代を急ぐ必要はなかった。

そうかと言って、ジーコが新戦力の発掘に無関心だったわけではない。2004年のアテネ五輪に出場した23歳以下の選手では、茂庭照幸、阿部勇樹、今野泰幸、石川直宏、松井大輔、駒野友一、大久保嘉人が、ジーコのもとで日本代表へのデビューを飾っている。松井と大久保は、各大陸の王者が集う2003年のコンフェデレーションズカップに、茂庭は2005年の同大会のメンバーに選ばれた。

松井はアテネ五輪後の2004年夏にフランスリーグのル・マンへ移籍し、クラブの1部昇格と1部残留に貢献していた。大久保も同年11月にスペインのマジョルカへ加入し、高いレベルでの経験をW杯出場へつなげようとした。アトランタ世代から続く海外進出の野心は、アテネ世代にも引き継がれていた。

しかし、ジーコが発表したドイツW杯のメンバーに、松井と大久保の名前はなかった。日韓W杯の出場メンバーがほぼそのまま残っている攻撃陣は、控え選手も含めて選手層が厚かった。日韓W杯の出場を逃したシドニー世代のMF中村俊とFW高原も、ジーコのもとでは重要な役割を担っていた。さらに加えて、国際試合で結果を残した選手を重用する指揮官の選手起用も、松井や大久保にとっての壁となった。

結果的に、ドイツW杯へ辿り着いたアテネ世代は、茂庭と駒野のふたりだけだった。茂庭は田中誠の負傷による追加招集で、駒野は左右のサイドバックができる汎用性を買われた。DF陣にケガ人が出たこともあり、オーストラリアとの初戦には駒野が先発し、茂庭も途中出場している。