大阪北部地震を地震学者はどう見たのか

注目される慶長伏見地震との関係
遠田 晋次 プロフィール

戦国武将たちを襲った2つの大地震

天正地震は1586年1月18日の午後10時過ぎに発生しました。被災範囲は現在の富山県、石川県、福井県東部、長野県西部、岐阜県全域、愛知県西部、三重県北部、滋賀県東部の広範囲にわたります。

ただし、歴史上の記録ということで正確で詳細な時間を知ることができず、1つの地震として複数の活断層が「連動」したのか、数分から数十時間の時間差で「連鎖」的に地震が続発したのかについては、議論が続いています。

地震発生時に秀吉は琵琶湖西岸に建つ坂本城に滞在中でした。震度5強程度の揺れを直接感じたと推定されています。一方で、琵琶湖東岸に建つ長浜城は震源地に近かったため、震度6以上の激しい揺れで大半が潰れました。湖岸が湖に向かって地すべりを起こしたとも推定されています。

また、現在の富山県砺波平野にあった前田秀継の木舟城が倒壊し、さらに庄川上流では、帰雲(かえりくも)山に築かれた内ヶ嶋氏理(うじまさ)の居城、帰雲城がこの地震によって城下もろとも一夜にして姿を消したと歴史記録に残されています。激しい地震動による巨大地すべりで、1500名以上が命を落としたと推定されています。

南に遠く離れた濃尾平野でも、いたるところで甚大な被害が報告されています。織田信雄(のぶかつ)が居城していた長島城も壊滅的な被害を受けました。濃尾平野での遺跡発掘などからも大規模な液状化跡が多数確認され、木曾三川河口付近や伊勢湾北部で10以上の島が水没したと記録されています(液状化かもしれません)。このほか、中部地方全域でこの地震による被災の記録が残っています。

天正地震から約10年後に発生したのが、1596年(慶長元年)9月5日の慶長伏見地震です。天正地震と違い、「伏見」と地名を付記しているのには理由があります。史料の調査や活断層のトレンチ調査によって、伏見地震だけではなく、数日の間に遠く離れた九州や四国でも大地震が起こっていたからです。

最新の調査結果によると、まず9月1日に松山付近に分布する中央構造線活断層帯の川上断層によって慶長伊予地震が発生し、その3日後、9月4日に別府湾で津波をともなうM7程度の大地震(慶長豊後地震)が発生したと推定されています。別府湾にあった瓜生島(うりゅうじま)がこの地震で沈没し、700名以上が命を落としたといわれています(瓜生島伝説)。実際は、府内(大分)から約4キロメートル離れたところにあった沖ノ浜という港町が、断層変位か地すべりか液状化で海没したと推定されています。

今回の地震と震源が近い慶長伏見地震

慶長伊予地震、慶長豊後地震の次に起こった最後の大地震が、9月5日の慶長伏見地震です。京都三条から伏見までは被害が大きく、秀吉の居城である伏見城の天守が大破し、城下でも多数の圧死者があったと史料に記載されています。

現在では大仏というと奈良東大寺と鎌倉ですが、このとき京都の三十三間堂のかたわらにある方広寺では、完成したばかりの大仏が大破しました。皮肉にも、10年前の天正地震を機に、秀吉が国家安泰のために建設した大仏が、次の大地震で倒壊したのでした。

この伏見地震では、現在の大阪市や神戸市でも多数の被害の記述が残っています。とりわけ、キリスト教の布教のために在日していたルイス・フロイスによるイエズス会への報告の記録なども貴重な史料です。この報告には、洲本城の倒壊など、南は淡路島まで被害状況が記録されています。なお、この地震が発生したときの元号は文禄でしたが、地震から3ヵ月後に天変地異を理由として慶長に改元されています。

このように京阪神・淡路島に多大な被害をもたらした慶長伏見地震は、複数の活断層によって引き起こされたようです。有馬−高槻構造線活断層帯が動いたことは確実です。京都府が1998年に実施した地震探査では、宇治川沿いに宇治川断層という伏在断層が発見されました。伏見での顕著な被害は、宇治川断層も同時に動いたことによるのかもしれません。

淡路島北部では、野島断層と反対側の東岸に東浦断層や野田尾断層、淡路島中央部には先山断層という活断層が分布します。これらの発掘調査でも、最近数百年間に活動した痕跡が見つかっています。有馬−高槻断層帯では淡路島の被害状況を説明できないことから、これらの活断層も同時に活動したとみられています。その他、六甲−淡路島断層帯の神戸側の五助橋断層でも、同時期の断層運動の痕跡が発見されています。

慶長伏見地震も4つから5つの断層帯が関与する連動型内陸地震でした。