日本の児童虐待対策があまりに的外れな「根本的原因」

これでは、救える命も救えない
井戸 まさえ プロフィール

児童虐待の現場は日本社会の縮図

真に救われなければならない、助けを求めている人の姿は通常こうした場では見えない、もしくは見え難い。逆にそういう人は「ややこしい」から最初から選別され、はじかれる傾向にある。

解決策へのキーはそこにあるというのに。

政治家の「視察」でも同様のことが起こっている。貴重な状況把握や意見集約の場が政策担当部署や関係者が「見せたい場所」「聞かせても大丈夫な意見」に矮小化されてしまうことが往々にしてあるのだ。

ヒアリングや視察では各省庁や時に地方自治体の関係者が呼ばれることもあるが、その場は議員に叱責される時間ともなることが多い。

政治家にとってそれが意図したことではないとしても、権力を持つ彼らが纏うある種の万能感は現場の人々を萎縮させる。

官僚や地方自治体の担当者は事件が起こり、責任を問われた時に「先例に従っている」と逃れられるようにと意識しながら仕事をするようになる、それが支援の幅を狭めさせているのだが。

そんな中で作られた政策はまさに「砂漠に散水する」結果となり、救える命を見過ごすことにつながっていく——。

 

ふと、こうした構造を考えた時に、表れの度合いは違うものではあるが、実は結愛ちゃんの家族の中でも同様のことが起こっていたのではないかと気付く。

暴走する船戸雄大容疑者に対して疑問を持っても見過ごすことでしか自分を守れなかっただろう母、船戸優里容疑者。そのうちそれが当たり前になり、危機感すら持たなくなる。

一番弱いものに被害が集中する児童虐待の現場は「忖度」も含めて萎縮に向かう日本社会の縮図なのかもしれない。