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蔑みの時代は終わった。日本女性よ、人生に一度は「ヤリマン」期を

セックスに主体性を取り戻せ

主語は自分でセックスしてきた

「潮さん、もともとそっちの人ですよね」。

現代ビジネスの編集者からそう言われた。「そっちの人」とは、ヤリマンのことである。確かに、20代後半から30代前半にかけて、私はヤリマンライフを謳歌していた。

90年代後半から2000年初期の当時は、ヤリ目(ヤることが目的)の出会い系サイトが隆盛期だった。巷には大人の社交場も多々あった。ハプニングバーや秘密の3P斡旋サークル、乱交パーティー。外国人がたむろするクラブも格好の漁場だったし、行動力と危機管理能力さえあれば、いかようにもヤレる時代だった。

幸運なことに、危険な目に遭ったこともない。たぶん、大人の社交場に来る人々は、基本的に「男女対等あるいは女性優先」「快楽優先、公私分別」「非干渉・非所有・非束縛」を心得ていたからだ。

私は主体的なヤリマンだった。NOと言えないワケではない。そもそも「ヤラせて」というオファーが少なかったというのが真実なのだが、基本的に、主語は自分でセックスしてきた。

ま、結果的にストライクゾーンは広かった(ついでに言えばミットもデカイ)のだが、素晴らしいバットをもつ選手は貪欲に自らスカウトしてきた。だが、ヤリマンというと、眉を顰められ、蔑まれたり、セックス依存症と勝手に診断される時代だった。

そんな私もうっかり再婚して落ち着いた。性欲が枯渇したわけではないが、気分としては、縁側で茶すするほどの枯淡の境地だ。あの一時的な「ヤリマン期の熱」を断片的に思い出すことはあっても、ほぼ忘却の彼方。しかも、いいことしか思い出さない。

今の世の中は、どうだろう。相変わらずヤリマンは生きにくい世の中なの? 確かに、セックスに伴うリスクが高すぎる。おまけに、セックスで得られる興奮や快感を勝るモノが世の中にあふれている。逆に、生殖目的のセックスは妙に神聖化され(正直、それも気持ちが悪い)、快楽のセックスはないがしろにされるようになった。セックスの価値が暴落した今、もはや主体性のあるヤリマンは絶滅危惧種になってしまったのか?

 

暇なJDが教えてくれたヤリマンの「粋」

そんなことはなかった。Twitterで話題になった「暇な女子大生」をご存じだろうか。彼女のセックスにまつわるツイートは清々しいヤリマンっぷりで、2016年末にはテレビドラマ化された(池田エライザ主演で、民放地上波の表現の限界に挑む意欲作だった)。

というのも、そもそも暇な女子大生はエリートしか相手にしない。相手は、東大・京大・東工大・一橋大、早稲田・慶應あるいは医大生などに限定。在学あるいは卒で、大手一流企業勤務の大人も対象ではある。要は中途半端なバカとはやらないのが哲学だ。

セックスを「優勝」と表現し、自らを「膣ドカタ」と呼ぶ。連日連夜「優勝」し、その試合内容を事細かにつぶやいていた。明確な主体性をもち、スポーツ感覚でセックスを楽しむ姿勢と、語彙力の豊富さに人気が集まり、1年弱でフォロワーは約40万人にのぼる(今でもアカウントがあるので、ぜひ読んでほしい)。彼女のヤリマンライフに憧れて、真似をする女子大生もいたという。現在は膣ドカタを引退し、他のSNSに引越ししたようだ。