日本人が「わら人形」を未だに怖れる理由

最近はネットで簡単に買えるけど…
菊地 浩平 プロフィール

なぜ、わら人形は怖いのか

こうしたことからわかるのは、前近代的、非科学的だといわれようと、呪い(のろい/まじない)は、今日においても世界のそこかしこにひそんでいるということだ。

文化人類学者の小松和彦は『呪いと日本人』(角川ソフィア文庫、2014年)において、呪いとは「呪い心」と「呪いのパフォーマンス」が組み合わさって成立するものだと述べる。

わら人形を用いた呪いのパフォーマンスといえば前述した丑の刻参りが有名だ。しかし呪い成立のためには誰にも見られてはならない(見られたら殺すべき)とされていたことを考えると、このパフォーマンスを他人が目撃することは通常かなり難しい。

よって神木に打ちつけられたものや、博物館に展示されたものを目にすることとなるわけだが、いつ誰がどのようにして使用したわら人形なのかはわからない。

つまり、われわれはわら人形のようなメディアを介して、どこかの誰かが呪い(のろい/まじない)心を持ちそれを用いてパフォーマンスしたらしいことを知る。そうして、祈りの痕跡であるわら人形から様々なことを想像する。

そこに託されていたのはもしかしたら、前述したおまじないのような、どこぞの小学生によるささやかな祈りだったかもしれないし、想像を絶するような恐ろしい術かもしれない。テレビや映画でわら人形を見かけた誰かが、ネットで購入したばかりのわら人形をいたずらで置いただけかもしれない。

いずれにしてもそのわらの塊が、"ひとのかたち"という人工的形状をしていることで、その背後や内奥に誰かの呪い(のろい/まじない)心が宿っている、ようにどうしても思えてしまう。

藁人形(山梨県村山市、1970年代収集、国立民族学博物館)(Wikipediaより)

これは裏を返せば、人形というメディアが発するメッセージは、われわれの不安定な主観によって、いかようにも解釈し得るものであることを意味する。

ほとんどの場合、それを誰が何のためにそうしたのか、はわからないし、わかったところで何がどうなるわけでもない。

ではどうするか。

そこで、わら人形と聞けば、「ああ、あれね」とにやけながら距離をとり、目をそらして深く考えないようにする。

いわば、現代社会でそつなく生活するための知恵として、わら人形はこわい、なんだか呪われそうだから近づかない、ということになっているのである。

しかしそれでいいのだろうか。

 

前述したように、呪い(のろい/まじない)心はこの世界から消失したわけではない。

であるとすれば、一見くだらなくも見えるわら人形が教えてくれるのは、そうした非科学的で不合理にも思えるような存在が、この世界のある部分を確かに形作っているという重要な事実なのではないか。

漠然とこわがるのではなく、立ち止まって、わら人形の歴史や文化的背景に目をこらしてみるとそんなことが分かってくるのである。

だからこそ、これからも世界の一側面について学生たちと真剣に考えてみたい一心で、わたしは今年もわら人形をネットで買うことだろう。

農家の子どもたちよ、今年も頼むぞ!