庄内藩が新政府相手に「勝ち続けられた」組織の秘密

会津藩とはなにが違う…?

庶民と藩主が一体

前回、庄内藩のユニークな教育を紹介し、それが戊辰戦争における庄内藩の強さの一因になったのではないかと考察した。ただ、じつは強さの理由は、それだけでないと思っている。そこで今回、なぜ庄内藩は新政府軍に最後まで勝ち続けたのかについて、もう少し話を続けていきたい。

江戸時代の大名は鉢植えのように、幕府の意向によって領地を移された。とくに譜代大名には頻繁に「転封命令」が下された。しかし庄内地方は、元和八年(一六二二)に酒井忠勝が藩主になって以来、一度も国替えがなかった。幕末までずっと酒井氏がこの庄内地方を支配してきたのである。

江戸中期以降、酒井氏は領民に過酷な税をかけないなど、他藩にくらべると善政をほどこしてきた。

天明七年(一七八七)に庄内を訪れた江戸時代の旅行家・古川古松軒は「庄内の鶴ヶ岡城下に止宿したが、酒井氏の政治が正しいので、豊かな農民も多数見え、衣服も卑しくなく馬も肥え太り、屋敷も美しい。これまで旅行してきたところで最も素晴らしい。会津の若松、二本松、白河、米沢は大藩の城下町だが、とても鶴ヶ岡城下にはかなわない」と述べている。こうした暮らしが可能だったのは、本間家の存在があったからである。

本間家は、酒田の豪商で日本一の大地主でもある。庄内藩は、そんな本間家の財力でたびたび財政難が救われ、ときには藩主(酒井忠徳)の依頼によって当主(本間光丘)みずからが藩政改革をまかされることにあった。本間家は、直接領民に対しても飢饉時の救恤、低利の融資、砂防林の造成など多大な支援をおこなってきた。

 

ところでなぜ本間家は、このように酒井氏に徹底的に尽くし、領民を保護し続けたのか、今の感覚では解せないかもしれない。

一つは、藩の許可がなければ商売ができないからである。どんな豪商であっても、藩ににらまれたら簡単に財産を没収されたり、処罰されてしまう。四代目末次平蔵、五代目淀屋辰五郎、銭屋五兵衛などその例は数え切れない。ならば積極的に藩と協力して発展していくほうが得策なのだ。

また、当時は持てる者は持たざる者を救う義務があると考えられていた。飢饉のときに打ちこわしによって豪商や豪農の屋敷が襲撃されるのは、苦しんでいる自分たちを救おうとしないという怒りからなのだ。

ただ、本間家を発展させた三代目当主・本間光丘は、経営手腕にすぐれているだけでなく、大変な人格者でもあり、「儲けた金は人のために使え。貧しい人に分け与えよ」というポリシーをもっており、その考え方が歴代当主に引き継がれていったのである。

そこで当時から「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれ、神様のようにあがめられた。つまり庄内藩は、領民である本間家のおかげで安定しているわけで、その事実は庄内藩士もよく理解していたし、それゆえ彼らは農民や商人への偏見というものが比較的薄かった。

そんな庄内藩に激震が走ったのが、天保十一年(一八四〇)十一月のことである。

幕府が酒井氏に対し、「越後国長岡へ転封せよ」という命令を下したのだ。

俗にいう三方領知替えである。日本史の教科書にも載っているから、なんとなく覚えている方も多いだろう。

この頃、外国船が頻繁に日本近海に姿をあらわすようになったので、幕府はいくつかの藩に江戸湾周辺の防備を命じた。譜代の川越藩もその一つだったが、これにより経済的負担にあえぎ、もっと豊かな土地への移封を幕府に求めたのだ。

そこで「幕府は、相模の海岸防備を担わせていた川越藩の財政を援助する目的から、川越・庄内・長岡3藩の領知をたがいに入れ換えることを命じた」のである。具体的には「川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が越後長岡へ、越後長岡藩が川越藩へ移る」(『詳説日本史B』山川出版社 二〇一八年)というものであった。そう教科書に記されている。

この知らせが庄内に届くと、「領内男女老若に至る迄、是を聞いて驚嘆怨哀せざる者無し」(『酒井家世紀』)という大混乱におちいり、やがて領内各地で百姓一揆が起こりはじめた。酒井氏を慕うあまり、転封を阻止するための行動であった。殿様にいてほしいからと、一揆が組織されたのは、おそらく前代未聞のことであろう。