田原総一朗がアダルトVRの世界を初体験!

高齢者の性を巡る旅②
田原 総一朗 プロフィール

「うちがやらないことはあり得ない」

VRを観終ってから、制作者たちの説明を聞くことになった。

SODでVR作品を手がける、プロデューサーの金井陽平氏とディレクターの柏倉弘氏である。金井氏はアダルト業界で12年くらい、柏倉氏は18年のキャリアがあるという。とういことは、二人とも、VR以前のアダルトビデオの時代から、この仕事にかかわっているわけだ。

――さっそくですが、アダルトビデオのVR化は、いつ頃からはじまったのですか。

柏倉「日本では、一昨年の春ぐらいから、VRという技術が急に騒がれるようになりました。それに合わせて、SODでもVR作品を作ろうとなりまして。本格的に商品になり出したのは、その夏になってからです」

――日本で最初に始めたのですか。

柏倉「厳密にうちが最初だとは言えないと思います。ただ、VRがアダルトで流行するかどうかはよくわからなかったなかで、わが社としては、技術的に可能ならばやる。それが、我が社の役割だと考えていました」

ずいぶん自信のある言い方をするな、と思ったのだが、このときは、それが柏倉氏のキャラクターだと捉えていた。次に金井氏が加える。

金井「SODというのは、アダルトビデオの業界では最先端という自負があります。アダルトとしては一番有名な会社が、『ほかがやっているのにSODがやっていない』ということはあり得ないのです」

実は、二人の話を聞くまでは、私はSODとはどのような会社なのか、その存在自体をまったく知らなかったのである。私は、その業界にはまったく無知だったのだ。

 

SOD、つまりソフト・オン・デマンドは業界最大手の会社だ。創業者の高橋がなり氏は、NTV系のテレビ番組「¥マネーの虎」にも出演し、業界だけでなく、マスコミでも有名人だったのである。私が知らなかったというのは、恥ずかしいことなのだ。

少し話がそれてしまうが、アダルト業界の歴史を知るためにも、創業者の高橋がなり氏について、彼の著作や雑誌のインタビューなどをもとに振り返りたい。

髙橋氏は大学受験に失敗した後、ビジネスの専門学校に入り、佐川急便に就職した。その後、テレビの制作会社に入りたくなって、就職情報誌に出ていたIVSという会社を受験したら、それがバラエティ界の巨匠であるテリー伊藤さんの会社だったのである。

IVSで高橋氏は、映画をつくるためのあらゆる仕事をした。テリー伊藤さんは、「面白いことをするためには、人でも殺せ」というのが口ぐせだったようだ。「きれいごとを言っても、飯なんかくえるか」とも言っていたという。

それは高橋がなり氏にも違和感はなかったのではないか。テリー伊藤さんの元での仕事は、かなり充実していたのだろう。だから8年間も続いたわけだ。だが、8年目に辞表を出す。このままでは一生、伊藤さんの黒子で終わってしまうと思い、つまり自立したかったわけだ。

ところが、そのことを言ったら、「お前には貸しがある。もっと会社に尽くしてから辞めろ」と言われた。そこでタレント・ショップをつくって運営したら、年に50億円もの売り上げを記録した。だから、「これで貸し借りはないですよね」と言って、30歳のときに独立したのである。

そして、ゴルフウエア・ショップを立ち上げたのだが、これは失敗した。

そのあと伊藤さんをはじめ、制作会社時代の仲間たちが資金を出してくれて、ロンドンからアーティストを呼んだりしてイベントをやる企画会社を立ち上げたが、これも失敗した。

その後、チェーンで売るアダルトビデオの制作を始めた。高橋氏に言わせると、「アダルトビデオのレベルがあまりにも低く、『労を少なく、いっぱい儲けたいという人間たちばかりだったから、いいものがつくれるわけがない。だったら自力で納得いくものをつくり、自分で売っていこうと、そこで95年にソフト・オン・デマンドをつくった」のだということだ。