医者のほとんどはドイツ語を使えないって…ホントですか!?

覆面ドクターのないしょ話 第20回
佐々木 次郎 プロフィール

ラテン語で言ってみろ!


医学用語の中にはラテン語が多いことは既に述べた通りである。

特に解剖学では伝統的にラテン語を使う。実際の臨床現場では英語を使うが、私の学生時代、解剖学の先生は英語なんて使ってくれなかった。

 

当時、医学部の授業では、体中の骨・筋肉・血管・神経をすべてラテン語で講義され、学生たちはちんぷんかんぷんのまま阿鼻叫喚〈あびきょうかん〉の進級テストに突入したものだった。

さて、むかしむかし、あるところにセレブなおじいちゃんがいた。

ある年の冬、そのおじいちゃんが出張で長野県に行った。昼は重要な会議に出席し、満場一致で「次期会長」という要職に推戴〈すいたい〉された。それまで仕事一筋で30有余年。定年を前にしてめでたく会長に就任することになったのだ。

「これぞ男の花道よ!」

おじいちゃんは得意の絶頂にあった。

夕方、会議場を後にして宴会場に向かった。大勢の参加者が待つなか、おじいちゃんは拍手喝采で迎えられた。そのなかには、かつてのライバルもいたが、彼らを抑えて「次期会長」の座を射止めたのだ。得意満面である。挨拶を促され、おじいちゃんは立ち上がって叫んだ(らしい)。

「気持ちいいっ!チョー気持ちいいっ!」

オリンピックで水泳の北島康介選手が「チョー気持ちいい」と叫んだが、おじいちゃんのネタを北島選手がパクったのかもしれない(失礼)。

65歳目前なのに、おじいちゃんはしこたま酒を飲んだ。

「宴もたけなわでございますが……」

そしてお開き。おじいちゃんは、「大丈夫。一人でホテルまで帰れますよ」と言って、市内へフラフラと歩き出した。一日の最後は自分自身と語り合ってみたかったのだろうか?

「寒っ! 信州の夜はしばれるなぁ。でも、酔い覚ましにはちょうどいいか」

そう独りごちながら、千鳥足で歩いていると、胸の中に妙な不安感が去来した。

「今までの苦労が報われたのに……なぜ?」


どうしたのだろう? 不安感は強くなるばかり。

「次期会長に決まったんだ。不安なんて……」

胸がどうもおかしい。

「胸が、く、くるしい……」

千鳥足がピタッと止まったその刹那〈せつな〉、おじいちゃんは嘔吐し、意識が遠のく。バタッとその場に倒れた。

年配の方は、寒い土地で飲んで帰るときは要注意(photo by istock)

「キャーッ! おじいさんが倒れてます!」

通りがかりの人が救急車を呼んでくれた。幸い、おじいちゃんは県内屈指の医療センターに救急搬送された。倒れて顔に泥が付き、服には吐瀉物がついたままだった。とてもセレブな老人には見えず、救急室の医者の対応は粗雑だった。

「このじいさんの事情、何かわかった?」
「まだ何も」
「公園に住んでるじいさんじゃね?」
「とりあえずルート確保!すぐに心電図と頭部CT!」

検査結果はすぐに出た。

「このじいさん、脳はちゃんとしてるじゃん」
「ボケじいさんの脳梗塞かと思ったのに」
「アンジャイナ(狭心症)で決まりだな」

診断は狭心症。老人が、宴会で温まった体のまま、急に寒い戸外に出て胸痛を訴えて倒れる。これは狭心症の典型的なエピソードだ。

おじいちゃんの意識は遠のいていたが、救急室の医者と看護師のやりとりは聞こえていた。

「このじいさん、何者?」
「独居老人の徘徊〈はいかい〉ですかねぇ?」
「酒飲んで吐いて失禁なんて、もうやめてって感じ」

循環器科のドクターにより、緊急心臓カテーテル検査が行われた。その結果、やはり心臓の冠動脈の一部に強い狭窄〈きょうさく〉が認められた。

「PCIの準備!」

バルーンで血管の狭い部分を広げる処置をすることになった。

「じいさん、わかる? これから風船で血管を広げるよ。ほらほら、動かないの!」

おじいちゃんは怒った顔で何か言いたそうだった。幸い処置は成功し、おじいちゃんは命をとりとめた。

救急外来では、搬送された方の社会的身分とは関係なく、ちゃんと処置してもらえます(photo by istock)

そこに、集中治療室の看護師から連絡が入った。

「関係者という方が多数救急外来に来ています」
「何やってるじいさんなの?」
「何でも○○医大の解剖学の教授だそうです。学会で次期会長に選ばれ、その懇親会の後に倒れたようです」
「何だって! きょうじゅ!? かいちょう!?」

翌日の循環器科の回診。部長以下、医局員が勢ぞろいで恐る恐るおじいちゃんの病室を訪ねた。全員うつむいている。自分たちの失言の数々を思い出すとぞっとした。

おじいちゃんの頭からは湯気が立っている。

昨晩、自分は、「どこの馬の骨だかわからぬじじい」として扱われていた。思い出すだけでも頭に来た。悔しかった。抗議しようとした。だが、あのときは体が動かず、口もきけなかった。

「○○教授とうかがいましたが、御高名はかねがね……」
「おいっ! おまえら、よくも馬の骨呼ばわりしてくれたな!」
「いえ、そのようなつもりは毛頭……」
「私は徘徊なんかしないぞ!」
「ごもっとも!」
「住所は公園じゃない!」
「お許しくださいっ!あのぅ……、御希望があれば何なりと」
「何なりとだと?」
「はいっ。何なりと」
「だったらなぁ、質問してやる! 俺の心臓の冠動脈のどこがどういう風に悪いのかラテン語で言ってみろ!」
「ラ、ラテン語で……ですか?」
「何なら解剖の講義してやってもいいんだぞ……ラテン語でっ!」
「恐れ入りましたっ!」

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