「事実を頑なに認めない」安倍総理を支える力の正体

モリカケ問題を再考する
山下 祐介 プロフィール

選挙を政治家が気にするのは当然じゃないかと、人は思うかもしれない。むろん選挙に通ってはじめて政治家になれるのだから、ある意味ではその通りだ。

だが、選挙は政治を実現するための手段であって、選挙が目的であってはならない。

あるべき政治家とは、あるべき政策、あるべき社会の姿を掲げ、その理念に国民に賛同してもらい、自分の力で選挙に勝って、その政治意志を実現していく、そういうものでなくてはならないはずだ。

そして政党というものも、あくまでそうした政治家の意志を政策へとつないでいくための手段なのである。

良いか悪いかは別として、例えば2007年の衆院選・郵政選挙がそうだった。

あれから10年経って、政治と選挙の関係がまったく逆転してしまっている。

選挙に勝つことが優先され、次の選挙に勝てるかどうかだけを気にして政策が選ばれている。

そして政党も、そうした選挙に勝てる(負けない)政策を取捨選択する機関と化し、個々の政治家の思いや意志とは別に、政党議員は選挙を牛耳る幹部が選択した政策にただ従うだけのマシンと化してしまっている。

〔PHOTO〕gettyimages

筆者はこれを異様な状態だと分析する。

事実、この数年、安倍内閣で見てきたのは、政策が適正に議論できなくなっている国会や政党の姿ではなかったか。みなだんまりを決め、言いたいこと言った者がいじめられ、権力の外へと追いやられていく。

政党から排除されればもはや次の公認はえられないのだから、個々の議員としては政党に従わざるを得ないのだろうが、それでは何のための政党なのか。事態が選挙を通じて逆立ちしてしまっている。

選挙ばかりを気にしているのは自民党だけではない。

野党もまたいつも選挙を気にしており、今回のモリカケ問題の追及でも急な解散をどこかでおそれ、次の選挙にこの案件が有利に作用するのか、不利になるのかを極度に気にしているようだ。

もっとも、私にはどうしても、ここまでの事態に陥っているのはやはり野党の責任よりも、与党自民党の責任が大きいように思える。

 

例えば昨年(2017年)10月の衆院選のようなやり方が、「すべては選挙」の政治をつくってきたように感じるのだ。

政治を本来動かすべきは選挙ではない。選挙が終わったあとの議会であり、そこで行われる政策の議論であるべきだ。

そして政策の採用も、選挙結果による数の論理ではなく、集められた政治家たちのきめ細かな議論の積み重ねで進められねばならないはずだ。

自民党が、遮二無二選挙に勝つことだけを優先するやり方を採用したことが、結果として政治を、選挙に勝てるかどうかだけを軸にしたプロセスに転換してしまった。

その選挙を牛耳るトップに安倍総理がいる。

次の選挙に勝つか負けるか、そのために「アベ」というカードを残すか捨てるか。

政策や政治のためではなく、まして国民のためでもなく、自らの政治生命の持続可能性のためだけに、目を凝らしてじっと様子をうかがっているのが、今の自民党の議員の現実の姿にほかならない。

だがこれこそ政治の腐敗と言うべきものではないか。