よいお金儲けの条件とは?~日大アメフト問題と経済思想史

~『はじめての経済思想史』から~
中村 隆之 プロフィール

投資ファンドを考えてみればよい。

それは、お金持ちたちができるだけ資金を増やすように運用せよと言って預けたお金である。その資金を運用するファンド・マネージャーのなかには、どんな手を使ってでも儲けることに奔走する人もいる。

例えば、従業員たちがコツコツ積み上げてきた内部留保が活用されない流動資金のかたちで存在している会社を発見すれば、その会社の株を買い占めて乗っ取り、内部留保分をごっそり配当で出させる。

会社の従業員とも、その会社の顧客ともまったく切り離された、自身のためだけのお金儲けがそこにある。社会と向き合う心は、かけらもない。

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だから、経済学は、富の所有者のお金儲けを肯定する面を弱め、富を活用する者のお金儲けを肯定する面を強めてきた。

所有者のお金儲けが社会を無視した身勝手なものになりがちなのに対して、富の活用者は社会の評価にさらされた経済活動に従事しているため、より「人間」的だからである。

スミス以降の経済学は、所有者が少しずつ主役から降りていく歴史と言うことができる。

経済を人間の手に

もちろん、現在において、スミスの条件が満たされるようになったわけではない。

われわれは、お金儲けと社会と向き合う心が両立すると言い切れる世界にはいない。むしろ、お金儲けのために社会と向き合う心を犠牲にしなければならない局面に、頻繁に立たされている。

 

例えば、番組の公正さや正確さを犠牲にして、スポンサーに迎合しなければならないテレビ制作会社の人びと。プライバシーにかかわると知っていながら、そうとは気づかせずに個人情報を収集するデータ会社の人びと、等々。彼らは、何か大事なことに目をつぶって仕事をしている。

いや、大きな会社で働いているならば、何かに目をつぶっているという意識、社会と向き合う心を犠牲にしているという意識すら、持っていないかもしれない。

組織のなかで懸命に生きていると、いつの間にか感覚が麻痺し、社会と向き合う心を失ってしまう。組織が持っているビジネスの論理を、当然のことと受け止めてしまう。

だが、当たり前を当たり前としない心を持とう。日大の監督の発言は、他人事ではない。なぜ社会と向き合う心を失うのかを考えない人は、いつでも監督のような立場に立ち、監督のような発言をしてしまう。

社会、仕事、その意味について、今こそしっかり考えようではないか。

それを考えるために、経済思想史は大いに頼りになる。先に述べたように、スミス以降の経済学は、スミスの条件(=人が社会と向き合う心を持って生きること)を満たすための努力であったのだから。J.S.ミルも、マーシャルも、マルクスも、ケインズも、経済を「人間」の手に取り戻そうとしたのだ。

経済学がどのような方向性をもって展開し、いま何を考えているかを知れば、これからどうなっていくのか、あるいはどうなっていくべきなのかを、大きな視野から考えることができるだろう。

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