もし小泉純一郎が「総裁3選」されていたら、ネット右翼は生まれたか

ネット右翼十五年史【7】
古谷 経衡 プロフィール

韓国との距離感

ここで指摘しておかなければならないのは、総理大臣の靖国神社公式参拝が、中国と韓国には牽制や威嚇として捉えられる事は当時においても自明であったが、筋論から言って小泉の出身派閥である清和会は、中国は兎も角、韓国とは伝統的協調関係にあった事だ。

すでに述べてきたように、「反共タカ派」の色彩が強い清和会は、冷戦期にはアメリカを盟主とするアジアの反共政策の中で韓国との関係を重視した。

その中で北朝鮮と直接対峙する韓国の歴代軍事政権は、表向きは竹島問題や歴史問題で日本に対して挑発的であっても、1965年の日韓国交回復以降、急激に日本との経済的結びつきを強めていった。 植民地支配の記憶が残る韓国にあって、日韓の2国間防衛交流は禁忌に近かった。

しかし在韓米軍・在日米軍が列島と韓半島に互いに展開する以上、アメリカを頂点とするアジアの反共連帯(SEATO・東南アジア条約機構など=1977年解体)、ひいては日米間3カ国の協調重視は、伝統的に日本の反共保守層に根強かったのである。

この反共保守層の自民党内勢力こそが清和会であり、中でも鋭敏なものが台湾断交に反対した福田派議員団の一部からなる「青嵐会」だった。

 

つまり小泉政権とは、伝統的な清和会の「反共タカ派」路線に基づき、中華人民共和国に対しては辛辣であったものの、韓国に対しては一定の親近感を「まだ」持っていた政権であった。

だが靖国神社公式参拝を契機として、当時まだ生まれたばかりのネット右翼は、「小泉政権は中国はもとより、間接的に韓国に対してもタカ派的政策を取っているのだ」と勝手に忖度して礼賛し始めたのである。

実際に、小泉の後に一度目の総理となる安倍晋三は、祖父・岸信介の代から統一教会の強い影響下にある「勝共連合」の総会に対し祝電を送っている。こうした行為は、清和会を出自とする戦後宰相にあっては至極当然の筋論なのだが、戦後史の基礎を知らないネット右翼には「不可解な行為」と映っている。

ネット右翼が重視してやまない「嫌韓」の姿勢は、それを清和会に求めるのは筋違いである。むしろ戦後の韓国を「アメリカ帝国主義者の手先である軍事独裁政権」と糾弾した往事の日本共産党にこそ親和性があると考えるのが普通だが、彼らはこのような「不都合な戦後史の真実」は直視しない。

ともあれ、就任3ヶ月強で早々に保守派の願望を「ほぼ満額回答」で実現した、小泉に対する保守系言論人、また彼らに寄生するネット右翼からの賞賛は、小泉の電撃訪朝と拉致被害者帰国を経て最高潮に達する。

もっとも、日本人拉致問題が明るみになるにつれて、無辜の同胞が北の工作員に拉致されたあげく、横田めぐみさんを筆頭とした被害者の安否について「事故などで死亡」と北朝鮮から一方的に通告された日本世論の激高は、保守層・リベラル層を問わず広汎なものであったことを付け加えておく。

2001年に颯爽と登場した小泉は、2002年のネット右翼勃興と時を同じくして、靖国公式参拝を嚆矢に、「対テロ戦争への参加」「電撃訪朝」と駒を進める事で急激にその信任を高めていった。二度にわたる小泉の訪朝が実施された際、内閣官房長官として小泉を支えた人物こそ、安倍晋三であった。

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小泉は2005年の郵政選挙で自民党が歴史的圧勝を記録すると、与党内で2006年の自民党総裁の任期切れを特別に延長する声が根強かったにもかかわらず、従前の宣言通り総裁任期を延長する事無く、2006年10月31日を以て勇退した。

いま思えば、このとき小泉が総裁任期を延長して政権権力に執着していれば、ゼロ年代後半以降の日本政治史は大きく、いや全く違っていたものになっていたであろう。

しかし、「変人」小泉は、そうした権力への執着は全くなかった。むしろ歴史的大勝利を良しとしてそのまま内閣を総辞職し、ホテルのスイートルームや高級マンションで悠々自適に「X-JAPAN」のCDを聴く余生を選んだ。