日本政府はなぜ「移民政策ではない」という呪文を唱え続けるのか

歴史的に反復する論理構造
望月 優大 プロフィール

「移民政策ではない」がつくってきた社会

最後に、具体的な未来を想像してみよう。大きな話ではない。一人の人間の話である。

新しい在留資格に基づいてとある東南アジアの国から来日した20代単身の男性外国人労働者。彼は関東近郊の建設会社で働くことになった。

来日してから2年後、会社の先輩の紹介で知り合った日本国籍の女性と交際を開始。さらにその1年後には二人に子どもができ、幸せな気持ちとともに結婚することになった。

結婚すれば、彼は「日本人の配偶者等」という在留資格を得ることができる。それによって、彼は入国当初に政府によって想定されていたよりも長く日本にいることが可能になる。就労についても業種などの制限が外れるため、建設業界以外への転職が視野に入ってくる。

子どもが生まれれば、その子どもは父親の言語と日本語の両方を話すようになるだろう。地元の保育園や小学校に通ううちに、日本語が優勢になっていくことも十分考えられる。

父親についても、しかるべき期間ののちに永住権を得る、そして日本国籍へと帰化するといったシナリオも考えられる。

 

こういうことは、当然起きうるのだ。

一人や二人ではない。政府が受け入れ拡大を検討している桁は数十万のそれであり、その多くが若者、かつ単身での来日と想定されている。全年齢に均等に分布するわけではない。家族形成期の若者を大量に呼び込もうとしているのだから。

そのとき、「移民政策ではない」という言葉は一体何を意味するだろうか。

忘れないでほしい。昨年10月末時点で日本国内の外国人労働者は128万人にまで急激に増加している。

これまで述べてきた通り、その数字は、日系人、留学生、技能実習生といった曖昧性の高いカテゴリーを通じて、少子高齢化の進展以降の日本が外国人の労働力にジリジリと依存を深めてきたことの結果である。

問題なのは、日本国民の多くが自分たち自身の国の姿やその変化を直視できていないことだ。

民主的に統治されている国家であるはずなのにもかかわらず、様々な蝶番を駆使することで短期的なメリットだけを享受してきた。

そして、長期的なビジョンをなしで済ませてきたことによって生み出された外国人・海外ルーツの人々にとっての潜在的な損失にきちんと直面してこなかった。

その不幸な反映として、医療、教育、福祉といった様々な公的・社会的領域における海外ルーツの人々に対する不十分な対応の数々がある。

現時点で空虚に「これは移民政策ではない」などと宣言しても、一人ひとりの労働者たちは人間としての当たり前の選択の果てに「移民」になっていくだろう。

そのことを例外視しかできず、広大な領域に広がる移民政策、受け入れ政策を準備できなければ、長い目で見てもっとも警戒すべき社会統合の失敗、社会の分断を帰結してしまうだろう。

方針原案に示された政府案を実行に移すには入管法の改正が必要になる。つまり、秋の臨時国会で改正法案が提出され審議されることになるだろう。民主的なプロセスを経るということは、誰かのせいにしている場合ではないということだ。「移民政策ではない」という言葉もスルーしていてはいけない。

「混じらないように管理できる」「帰したければ帰すことができる」――こうした発想は幻想にすぎない。

雰囲気だけで雑に話を進めるのではなく、歴史と理性に根ざした現実感のある議論を一つひとつ積み重ねていかなければならない。