日本から「児童虐待」が絶対なくならない理由といま必要な10の対策

結愛ちゃんと家族が求めていたもの
井戸 まさえ プロフィール

父親が耐えられなかったこと

「ママ、もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんからきょうよりか もっとあしたからは できるようにするから。もうおねがいゆるして ゆるしてください。おねがいします。ほんとうにもうおなじことはしません」

結愛ちゃんが残したメモは衝撃をもって受けとめられた。

「きょうよりか もっと あしたからは」……就学前の子どもが書いた内容としては切なすぎる。

しかし船戸容疑者夫妻はなぜこれほどまで執拗に結愛ちゃんに字を教え、勉強させようとしたのか。

児童虐待に詳しいルポライターの杉山春氏は以下のように指摘をしている。

「結愛ちゃんが書いた反省文を読むと、家族から強いコントロールを受けていたと感じます。社会的な力を失った親が、家族の中でも最も弱い者を標的にするという家族病理が現れたように思います。父親は、香川では虐待で通報され、書類送検されています。逮捕当時、無職でした。

そうした状況は、父親にとって、耐えられないほどのマイナス評価だったのではないかと想像します。この家族はそうした評価を下された場所から逃げ出したようにも見えます」(AERA.dot「結愛ちゃん虐待死「ひどい親」と批判しても事件は減らない 「評価」に追い詰められる親たち」)

 

連れ子がいる女性と再婚することは今ではそう珍しい話ではない。婚姻は人生を新たに出発するという意味ではリセットである。良き父、良き母としての評価は、子どもの振る舞いにかかっている。

これは船戸容疑者だけでなく、たとえばお受験に夢中になる親の中にも垣間見える場合がある。つまり世間の評価と自分の位置に著しい相違を見た場合、それを否定するために子どもを使う。注目すべきはそれが「学力」という点だったということだ。

それはこの夫婦がコミュニティから抜け出てしまうきっかけになったものなのかもしれない。だからこそ、年齢にそぐわない度を越した「しつけ」を行い、それができないと謝らせる。

「親」としての威厳が、彼にとっては最後に残ったプライドを唯一満たすものだったかのように。

欠損した「親」という役割を演じること

結愛ちゃんと船戸雄大容疑者との関係を考える時、昨年12月、拙著『無戸籍の日本人』の文庫化に伴う対談を収めるために行なった是枝裕和監督との対談内容が思い出される。文庫化の中には収められなかった『海街diary』に関してのやりとりである。

『海街diary』は脚本等全て手がける是枝作品には珍しく、吉田秋生の漫画を原作とした作品である。

綾瀬はるか、広瀬すず等、人気女優が登場する映画としても注目されたが、実は是枝監督はこの作品で「家族の欠損と、欠損した役割を補うよう変化して行く個人を描きたかったのだ」と言った。

「欠損した役割」とは何か。

『海街diary』の姉妹で言えば、父もいなくなり、母も家を出た後、長女が母の役割を担い、一家の仕切り役となる。また末っ子として甘えて来た三女は、父の再々婚相手との間に生まれた四女が同居することで「姉」を演じるようになる。

四女は異母妹である。通常の物語であれば「シンデレラ」のように確執が起こるはずだが、『海街diary』の登場人物はそれぞれの「役割」を当たり前に受け入れて行く。
そこに衝突や葛藤がない。是枝監督はそれを「豊かだと感じた」と言う。

結愛ちゃんの養育環境について欠損した「父」という役割を船戸雄大容疑者は補おうとしたのであろうか。

母である船戸優里容疑者はそれまでのつらい記憶を封印して、欠損を埋めた新しい「家族」として再生して行くことを願ったのかもしれない。

「母」として空白となっている結愛ちゃんの「父」、家族の欠損を埋めることがまるで役割のように。

その気持ちは、子連れ再婚の経験者として想像に難くない。

しかし、期待された役割を自分の思い描いたようには果たすことができないと知ったとき、どうしたらよいのであろうか。