「受容」と「理解」の違い

勝間さんや僕がカミングアウトできているのは、それぞれ自営業ないしはフリーランスであることも大きいかもしれない。前述したように、やはりいまだに多くのひとにとってカミングアウトは大きなリスクをはらむ。

それでも、カミングアウトをすることで、われわれ性的少数者が可視化され、一般のひとびとがわれわれの存在を認識し、「知る」ことにつながるのであれば、やはりカミングアウトをできる立場のひとがカミングアウトをすることは、決して無意味ではないだろう。

たしかにいま、日本社会は変わりつつある。「LGBT」という言葉も、ニュースやメディアで盛んに聴かれるようになった。その認知の過程で、インターネットの果たした役割は非常に大きい。社会はいま、性的少数者を「受容」しつつあるといえるだろう。しかし、「受容」と「理解」は似て非なるものであるように思う。

レインボーステッカーのトイレ

つい先ごろ、大阪市で市内の多目的トイレにLGBTを象徴するレインボーカラーのステッカーを貼ることで、あらゆる性的指向のひとが利用できることを示すという試みがなされた。しかし、この試みは、性的少数者当事者から、「レインボーステッカーのあるトイレを利用することで、自分が当事者であることが露見してしまうのではないか」という指摘が寄せられ、結局中断することになった。

このとき、インターネット上では、「LGBTの当事者たちは、わがままだ」とか、「自分たちの権利を散々主張するくせに、何をしても結局文句ばかり言う」というような非難のコメントが多く見られた。

僕はこの件は、「受容」と「理解」の間に深く流れる川を象徴している事例であるように感じた。

この根底には、性的少数者を受容し始めた社会の、「自分たちは彼らを受容して“あげている”のに、彼らはわがままだ」という無意識の目線があるのではないだろうか。そして、「受容」をし始めたことで、性的少数者を「理解した」という誤解が生じているのではないか。

世界中で行われている、LGBTへの理解を呼びかけるレインボーパレード。台湾でも毎年かなりの盛り上がりを見せている Photo by Getty Images

しかし、先にも述べたように、性的少数者コミュニティ自体が非常に多様であり、一般のひとびと同様、ひとりひとりが違った考えを持っている。ステロタイプな、「LGBT像」や「性的少数者像」というのは存在しない。勝間さんや僕のように、カミングアウトをして生きることを選んだひともいれば、僕の周りの多くの当事者たちのように、カミングアウトをせずに生きることを選んだひともいる。

社会がこうして性的少数者を「受容」し始めたいま、僕たちカミングアウトをしている当事者は、僕たちのコミュニティ内部の多様性について、社会に発信してゆくことができる。そして、僕たちが社会にとってただ単に受容すべき「他者」なのではなく、多くのひとびとと同様に社会に参加し、社会に生きる共生すべき仲間であることを訴えることもできる。

それこそが、「受容」を超えて、「理解」へと至る道筋なのかもしれない、と思う。そして、そのためにこそ、インターネットは活用されてほしい。

受け容れることと理解のそのあはひ青く烈しく川は流れる

おさの・だん 1983年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。大学院卒業後に台湾にて起業。中学生のころから作歌をはじめ、2017年「無垢な日本で」で第60回短歌研究新人賞を受賞。第一歌集『メタリック』ではオープンリーゲイとして生きる自身の等身大の言葉を表現している。