日本の出版文化を育んだ男の、「やんちゃな幼少期」

大衆は神である⑥
魚住 昭 プロフィール

超問題児とその父

さて、肝心の野間清治である。明治17年(1884)、新宿尋常小学校に入学し、4年後の明治21年、山田第一高等小学校に進んだ。

清治が遺した口述録によれば、彼は両親から、野間銀次郎や森要蔵・寅雄父子の最期を繰り返し聞かされ、「お前はこんなエラい先祖の血を受けているのだから、是非、家を興さなければならぬぞ」と言われて育ったという。

小さいころから相撲が強く、駆けっこや水泳も得意だった。川に潜って石の間に隠れている魚を手で捕まえて口にくわえ、「泳ぎながら(口で)魚を捕まえたぞ」と友だちに自慢したりした。

 

それでも尋常小学校時代は比較的おとなしかった。が、高等小の1年になると、にわかに性格が変わってガキ大将になり、あらゆる悪さをやった。

あるとき、彼が父・好雄に作ってもらった小刀を友だちに自慢した。すると「その刀がそんなに切れるか」と言われたのでカッとして、その友だちの唇をつかみ、刃でズブッと切った。

また、あるときは、いつもはおとなしい隣村の生徒の言葉が気にさわったので、その生徒の胸倉をつかんで投げた。すると、生徒の頰のあたり一面が地面にこすれて出血し、ひどいケガになった。さすがに気の毒になり、「キミ、勘弁してくれ」とひたすら謝った。

高等小2年のとき、清治のクラスの行儀がいちばん悪い、生徒が乱暴をするというので校長が教室に来て、1時間ばかりかけて説教をした。校長が最後に「よくわかったか」と言って教室を出て行った直後、清治が「アッカンベエー」をした。

それを聞きつけた校長は引き返してきて、「今までの長い話が滅茶苦茶になった。今のは誰だ」と真っ赤になって怒った。クラスの皆が黙ったので結局、清治の仕業だということになり、彼はその日、学校に留め置かれた。

午後7時ごろ、やっと許されて帰る途中、迎えに来た好雄に出会った。好雄は「こんな遅くまで人の子を残しておく法はない。俺がこれから行って校長をとっちめてやる」と息巻いたが、清治は「自分が悪いのだから」と言ってなだめ、思い止まってもらったという。

この親にしてこの息子ありと言えようか。

(つづく)