医者が注射針の事故で「肝炎」「エイズ」に感染してしまうとき

覆面ドクターのないしょ話 第19話
佐々木 次郎 プロフィール

前立腺マッサージで「もう指が動かない……」

腱鞘炎】

これも多くの医者を悩ませる病気である。

筋肉は一般に腱に移行してから骨に付着する。腱がうまく滑るようにその周囲を包んでいる組織がある。これを腱鞘という。

つまり腱鞘炎とは腱と腱鞘との摩擦によって生じる炎症のことである。例えれば、指と指輪の関係に似ている。指輪の中で指を何度もゴシゴシと出し入れすると指が痛くなる。この状態が腱鞘炎だと思っていただきたい。腱鞘炎は四肢、特に手の指が圧倒的に多い。

変わった名前が付いている腱鞘炎もある。有名なものは、「ばね指」と「ドケルバン病」である。

 

ばね指とは聞きなれない名前かもしれない。昔、医療現場での経験がない女性が医局の秘書に採用された。この秘書さん、電話口で病名を聞いて、ホワイトボードにでかでかと「ダメ指」と書いてしまった……。

ばね指とは、指を曲げる腱(屈筋腱)の腱鞘炎で、指の曲げ伸ばしの際にカックンと引っかかり、痛みを伴うのが典型的な症状である。指の一番根元の関節(MP関節といいます)の腱鞘が肥厚して腱鞘炎を生じるのがばね指の原因である。

ドケルバン病は、親指を伸ばす腱(正確には長母指外転筋と短母指伸筋の腱)の腱鞘炎である。「ドケルバン」とはなんだか恐ろしい響きであるが、スイス人の偉い外科医の名前(フリッツ・ド・ケルバン)なので御心配なく。症状は親指を伸ばしたり外に開いたりする際に強い痛みを感じる。女性に多く、料理の際にフライパンが持てないなど支障が多い。

腱鞘炎は指を何度も曲げ伸ばしし過ぎると誰でもなってしまう。実はわれわれ外科医がなりやすい病気が腱鞘炎なのである。

海堂尊氏原作のドラマ「ブラック・ペアン」では毎回のように手術のシーンが描かれている。外科医は手術中にハサミを頻繁に使う。

クーパー、メイヨー、メッツェンなど、用途によって種類が色々ある。ドラマで内野聖陽さんや二宮和也さんが「メッツェン!」と言って、はさみを受け取っていた。正式名称は「メッツェンバウム」といって組織を剥離したり糸を切ったりするための柄の長いハサミである。手術中に頻繁に使うのがこのメッツェンで、私たちはこのハサミを何度も何度も開閉する。手術が数時間に及び指を酷使すれば腱鞘炎になる。

メッツェン(photo by 佐々木次郎)
ペアン。止血のために血管を挟む鉗子(photo by 佐々木次郎)

また整形外科では、お年寄りの膝の痛みに対してヒアルロン酸の注射を行う。注射はただブスッと薬を注入しているのではない。針を刺したらまず動脈や静脈などの血管に当たっていないかどうか、注射器の内筒を引っ張り、陰圧をかけて血液の逆流がないことを確認した後に、薬を注入している。薬を注入するまで色々と指を動かしているのである。

膝の注射に使用するヒアルロン酸はベトベトとして粘稠が高く、注射の操作の際、指に力が必要なのだ。毎日朝から晩までヒアルロン酸の注射をすると、整形外科医は腱鞘炎になりやすい。

さらに特殊なケースの腱鞘炎を御紹介したい。肛門の診察で指を酷使し腱鞘炎になるケースがあるのだ。

肛門に指を挿入して直腸・肛門を診察する方法をこの業界では「ジギタール」という。英語のスペリングは「digital」、語源は指・数字を意味する言葉で、ITで使う「デジタル」と同じ単語である。だが、なぜか習慣的に発音は「ジギタール」、日本語では「直腸診」または「直腸指診」という。

直腸診で何を診察しているかというと、肛門~直腸内の痔や腫瘍、さらに男性の場合は前立腺の腫れなどを診察しているのである。

直腸診は患者さんにとっては受けたくない検査の一つだろう。実は私も、大腸内視鏡検査の際、直腸診をされた経験がある。お尻を他人に見せ、指を突っ込まれるのはやはり恥ずかしい。

その直腸診だが、泌尿器科では前立腺の炎症に対して「前立腺マッサージ」をすることがある。直腸診と同じ手技で肛門から指を挿入し、すぐそばにある前立腺を刺激する。マッサージにより、前立腺液が排出され、頻回の尿意も緩和されるという。慣れてくると少々気持ちいいものらしい。

ある病院の泌尿器科外来で、前立腺炎の専門外来があった。外来の5個のベッドに患者さんがお尻を出して横になっている。それを泌尿器科の医者が次から次へと指で前立腺マッサージをするのである。

患者さんは高齢者が多く、ベッドにはおじいちゃんが5人ということになる。外来は入れ替り制で処置が終わり次第、次の5人、さらに次の5人を診察していく。

日々、その処置を繰り返していた先生の指は腱鞘炎になってしまい、しまいには動かせなくなった。

最後の患者さんの診察のときには、あまりの指の痛さに指を2、3回動かしただけで処置を終わりにしてしまった。

前立腺マッサージが大好きだった最後のおじいちゃんは、それにたいそう腹を立てたという。

「先生、もっとやってくれよ」
「このくらいで勘弁してください」
「なぜできないんだ!」

魔球で利き腕を傷めた野球漫画のピッチャーのように、先生は左手で震える右手を支えながらこう言った。

「僕のこの人差し指が……もうこれ以上……動かないんです!」
「だいたいねぇ、あんたの指には……誠意がこもってないんだよ!」