2002年に脳溢血で倒れ、右半身が不自由になったピアニストの舘野泉さん。2年後に左手のピアニストとして復活し、81歳の今も年50回もの舞台に立つ。望んで移住したフィンランドとの往復生活は50年以上になる。「人生100年時代」の今、不自由なところがあっても自分の生き方を貫き、一線に立ち続けるにはどうしたらいいか。そのヒントを探った。
【①周りにできないだろうと言われても、絶望はしない】
舘野さんが脳溢血で倒れた後、ドクターや音楽家仲間に、「もうピアノを弾くのは無理だろう」「引退してゆっくり暮らせばいい」と思われていた。こうしたあきらめの空気を感じながらも舘野さんはリハビリを楽しみ、絶望することなくピアノを弾いてみたり休んだりしながら暮らした。
左手のための曲があるのも以前から知っていたが、すぐに心は動かなかった。倒れて1年半ぐらいの時、バイオリニストの息子が持ってきた楽譜により世界が開き、すぐに日本での演奏会を自ら企画。倒れて2年後には、左手のピアニストとして復活した。その経験を、舘野さんはこう表現する。「機が熟す時ってある。2年間は、必要な時間でした」
【②結果にこだわらず、やり続ける】
復帰以来、世界を飛び回って年に50回もの演奏会を開き、新しい曲に挑戦し続けている。80歳の記念に、4つのピアノ協奏曲を一気に演奏して喝采をあびた。
「人生にはゴールがありません。常に通過点です。大きな理想もなくて、やりたいこと、できることを探してその方向に行きます。探るうちに、これだと手ごたえがあります。そこを通過したら次の日には結果を忘れて、また新しい日々が始まります。ピアノを弾くと、音が生まれて消えていくように」と舘野さん。
【③新しい人に出会う、やりたいことがある】
80歳を過ぎてなお、常にやりたいことがあるのも元気の秘けつだろう。
「何もないのがいけない。高齢になって落ち込んでしまうのは、やりたいことが見つからないからでは。私には左手の新しい曲が100もあり、ありがたいことに曲を書きたいという人もたくさんいます。作曲家の人柄を見ていいなと思ったら、年齢も経歴もジャンルも関係なく頼んでしまいます」
共演もひらめきで決める。「息子と一緒に出る演奏会もあります。5月のヤマハホールで共演したイスラエルのビオラ奏者は、もともと左手の曲を依頼した作曲家です。ある人と組んだら、その1つの試みを核にしてまた違う演奏会をしてみたいと広がっていく。女優の岸田今日子さんともご一緒し、亡くなってから間が空きましたが、今は草笛光子さんと朗読と音楽の催しを続けています」