日本に「超一流」が育ちにくい理由~才能を伸ばす脳の育て方とは

日本人の脳にせまる④
中野 信子 プロフィール

才能を正しく褒めて伸ばすには

それでは、才能はどうやったら伸ばすことができるのでしょうか。

どうしたら「困難への挑戦を喜び、創意工夫を楽しんでいくことができる人」に成長させてあげられるのでしょうか。

子どもに限った話ではなく、「人材を育てる」という観点からも、これは重要な課題と言えるでしょう。

素質をただ無条件に褒められた子が挑戦を厭うようになる一方で、努力や工夫を褒められた子どもは、困難を喜んで受け入れ、自分の失敗をむしろ学びと考える傾向が高くなったという結果から単純に導き出せるのは、その人の努力や工夫に焦点を当てて褒めていこう、という原理です。

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しかし、具体的にそれを現場に適用していこうとなると、これほど難しいこともないだろうと思います。能力や性格が一様であれば、成果だけを見てそれを努力と工夫の証とし、褒めていけば事足りるのですが、人間は多様で、ひとりとして完全に同じ人は存在しません。

一卵性双生児ですら、非常に似通っていながらも独立した才能を持ちます。こうした条件のもとでひとりひとりの努力と工夫を丁寧に観察し、褒めていこうとなると、かなりの時間的コスト、心理的コストがかかるでしょう。

 

それを適切に評価できる人材もまた、常に豊富にいるわけではなく、まずその育成から始めなければならないと考えると、「人づくり」(賛否両論ある表現ではありますが)というのは気の遠くなるような道のりのように思えてくるかもしれません。

創意工夫や努力を褒める、の具体化をするときに参考になるのは、やはり具体例になるかと思います。私事で恐縮ですが、私自身が受けた教育についてお話ししましょう。

私も、80点では良い点数とは感じられない子どものうちのひとりでした。自分にとって良い点数を取ってはいないのに、しかも何の努力もしていないのに、他の人からは褒められてしまう。ちょっと悪い点数を取っておいて、次に成績を上げると褒めてもらえる。

何の努力もせずにもともとできてしまうより、努力をしている人のほうが価値が高いような気がして、「努力したね」と言ってほしいがために、わざわざそんなことを企図するようなこともありました。

そんな中、中学のとき一風変わった試験をする先生がいました。科目は理科でしたが、先生の試験では、正解のある問題はいつも30点分(つまり、これだけ取れれば赤点にはならない)だけ出題されるのでした。

残りはすべて記述式の問題で、正解がないのです。例えばどんな問題なのかというと、「ヒトはなぜヒトになったのか」「宇宙の全容はどのようになっているか」など、答えようによっては大学でその分野の専門の教授職にある人でも難しいような問題です。

先生は、学生ひとりひとりの答えに対して、一律には採点しませんでした。中学生の水準をはるかに超える知識があって、それを駆使して答えたとしても、それが満点になるとは限らないのです。一方で、小学生用のなぞなぞの答えのような回答でも、先生がそこに工夫と新しさを感じれば、独創的で面白い、として満点がもらえることもあったのです。

それでも私の知る限りえこひいきという不満が出ていなかったのは、先生がひとりひとりの性格や性質をよく把握していて、その回答がその子らしいウィットや洒落を効かせた答えであるかどうかを適切に判断できたからでしょう。

私にとってうれしかったのは、どんなに専門的な単語をちりばめて理路整然と答えを書いても、どこかで見たような「模範解答」を覚えてそのまま書いているような回答では、先生は評価しなかったことでした。他の大人たちなら驚いて「すごいね」「頭がいいね」と言うような答えでも、私の到達度を先生はよく知っていて、私ならもうすこし創意工夫ができるはずだと、満点にその分だけ足りない点数をつけたのです。

その点数のつけ方に、私は非常に満足したことを記憶しています。そしてまんまと私はその戦略にはまり、熱心にアドバンストな勉強をするのは理科ばかり、その他の科目はそれなりに、という学習スタイルになっていきました。

これと似たようなテストをする人の話をつい最近知りました。ご紹介したいと思います。江本孟紀さんの『野球バカは死なず』(文春新書)という書籍の中に出てくる野村克也さんのエピソードです。

当時の野村克也監督は、選手にペーパーテストを受けさせることがあったそうです。しかし、テストの後で評価基準を聞いてみると、正解かどうかは二の次で「少々間違っていても、一生懸命考えて、たくさん書いてくるほうが、ワシは好きや」とおっしゃっていたというのです。

江本さんは、「要するに、物事に向き合う姿勢を、テストされていたことになる」と述べていますが、野村監督はその選手の知識量や「頭のよさ」を褒めるのでなく、「努力」と「工夫」とを褒めたのです。「再生工場」とまで呼ばれた野村流の才能の伸ばし方は、科学に裏付けされたものでもあったわけです。