講談社創業者を生んだ「器量よしの母と、いたって陽気な父」

大衆は神である⑤
魚住 昭 プロフィール

細君に比して……

田口の証言はつづく。

〈そのときに私は留雄(=とめお、文が当時名乗っていた別名)さんから涙をこぼして拝まれちゃったのですが、「おかげさまで助かりました。幾度か自決しようと思っていました」ということを述べられました。野間好雄さんという人はヒゲが生えていまして、剣道のほうはよくできるけれども、学問のほうはさっぱり駄目で、仕方がないから好雄さんには俸給を三円あげました。細君の留雄さんのほうは文筆も立つし、字もとても上手で、三円五十銭差しあげました。それに、なかなかの美人で、(道場を開いていたとき)修行者などが来ますと、好雄さんの方はあまり出ないので、留雄さんが薙刀でいつも追っ払っちゃうわけですが、それはもうだいぶ評判でした。学校の方は薙刀でなく、下の方(=下級クラス)を教えていただきました〉

すらりとして、大理石のように滑らかな肌をした文の人気は高かった。「学校に来ても、他の組の生徒もみんな留雄さんの方に寄っちゃって、受け持ち(の先生)の方に行かないのです。よほど器量がよかったのですね」と田口が言う。

一方、夫の好雄は、色白で、身長5尺8寸(176センチメートル)、体重24〜25貫(90キログラム余り)。当時としてはひときわ目立つ巨漢だった。田口によると「朗らかな、毒のない人」だが、「まったく無能と言っていいので、何もとりどころはない」男だったという。

 

学校をやめて二軒長屋へ

野間夫婦が新宿小学校の一室に転居して間もなく清治が生まれた。それから2年後の明治13年(1880)11月には、後年、清治を助け、講談社創業時に重要な役割を果たす妹・保(やす)が生まれる。

しかし、一家4人の平穏な暮しはそう長くはつづかなかった。田口が新宿小学校を退き、庇護者を失った野間夫婦も学校をやめざるを得なくなったからだ。

一家は、学校近くの二軒長屋のひとつに入った。家賃1円の長屋の天井は真っ黒にすすけ、煤の塊がいくつも垂れ下がっていた。戸板の下の方は簓(=ささら、細い竹を束ねた道具)のように破れ、ガタピシして開けたてができず、つっかい棒をしなければすぐに外れた。

戸のすき間から月の光が差し込み、冬には上州名物の空っ風が吹き込んだ。夏に、使い古した蚊帳をつると、なんともいえない異臭がした。

好雄は、生活のため、また棒こきをした。文は近所の娘らを集めて針仕事を教えたり、仕立物をしたりして家計を一手に支えたが、借金に追われる日々がつづいた。

好雄はいたって陽気な質(たち)だったので、そんな貧乏暮しを苦にせず、表通りの真ん中を英雄豪傑のように大股で歩いた。そうして、よく酒を飲んだ。

「人間はうまいものを食わないと、いい考えもでない。立派な人間にもなれん」と言って美食を好み、魚屋が道を通ると、呼びつけてふんだんに刺身を作らせた。その支払いが滞るので、魚屋は野間家の前を避けるようになり、そばを通るときも呼び声を出さなくなったという。

中村孝也(こうや)は『野間清治伝』に「好雄は名詮自性(=みょうせんじしょう、その名の通り)、好き人物であつた。輪郭が大きく、包容力が豊かであり、人づきが滑らかで漫(みだ)りに争ふことなく、町の人々からも(略)愛好せられて居つた。しかし少々箍(たが)が弛んで水の漏れる虞(おそれ)があつたらしい」と書いている。

と、ここまでが公式の自叙伝・伝記に描かれた清治の父親像である。しかし、これには肝心なことが抜け落ちている。

(つづく)