講談社創業者を生んだ「器量よしの母と、いたって陽気な父」

大衆は神である⑤

上州の貧しい家から、東京帝大書記を経て、戦前日本を席巻するメディア・コングロマリット「大日本雄弁会講談社」を生み出した男——野間清治。

その豪快なビジネスセンスと、鮮やかな立身出世を賞賛する文献は少なくない。しかし彼の生い立ちやほんとうの人柄は、これまであまり詳らかにされてこなかった。

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、日本の出版業界と近代社会の黎明、そして野間という男の光と陰を追う大河連載「大衆は神である」。第5回は、野間の原風景をかたちづくった両親の足跡をたどる。

まさに「士族の商法」

森文(もり・ふみ)は器量よしで、漢学をおさめ、武芸にも秀でた評判の娘だった。

一度他藩の藩士に嫁いだが離縁、飯野藩士と再婚して男児を生んだ。しかし、まもなく夫が亡くなったので男児を兄の喜多川俊朝(喜多川家に養子に行き、東京で漢方医をしていた)に預け、明治9年(1876)、野間好雄(よしお)と結婚した。

このとき好雄が数えで26歳、文が36歳。文が10歳上の姉さん女房だった。

 

好雄は東京の芝のあたりで雑貨屋か何かの商売をはじめた。が、たちまち失敗した。その経緯を好雄から直接聞いた田口広吉(群馬県新宿[しんしゅく]村、新宿小学校の元教頭)の証言が戦前の談話速記録に残っているので、それを紹介しよう。

〈(好雄の話では、明治政府からもらった家禄奉還金を元手に)番頭二人を置いて店をはじめたそうですね。好雄さんは(店の)奥へ入って、通しで(=ずっと)酒を飲んでいたという。あるとき、婦人の方が浅草紙(=あさくさがみ、トイレの落し紙にするような下級紙)を買いに来たところが、ちょうど番頭二人ともいなかったので、しきりに「おくんなさい。おくんなさい」と言っておったという。すると好雄さんが奥から出てきて「武士たる者、そんな汚れたものを手にはせぬ」と怒鳴りつけたそうで、その女性はたいへんたまげて逃げて帰ったというような話も聞きました。それで二年足らずで、その財産を番頭二人にめちゃくちゃにされちゃったそうです〉

関東を流れ歩いた果てに

好雄と文は店をたたみ、そのころ流行っていた撃剣会(観客の前で剣術の試合をしてみせる興行団体)に加わった。好雄は竹刀を手に、文は薙刀・鎖鎌を持ち、関東諸国を流れ歩いた。

そうしてたどりついたのが、上州桐生の町はずれの新宿村である。当時のふたりについて田口広吉はこう語っている。

〈新宿(村)のなかに六本松というところがございますが、そこへご夫婦が浪々の身となってお出でになり、土地の有志に頼んで道場を建てられたのですね。そうしたところが桐生の人々は軽薄というか何といっていいか、二年くらいたつかたたないうちに先生たち(=野間夫婦)を顧みることをしないようになってしまったのです。仕方がなくなって(六本松の近くの)中宿の民家の物置を借りて、そこで一時、しのぎをつけるために機屋(はたや)の棒こきをしたんです。棒をこくというのは、(機織りの機械に使う)棒をナタで削る内職です〉

ところが、好雄が力任せに削る棒は丸くなく、しかも歪んでいて、使い物にならなかった。一家の生活はさらに窮迫し、にっちもさっちもいかなくなった。そのとき、中宿の住民が田口を訪ね、「まことに気の毒だから」と野間夫婦の身の上を語り、「ぜひ学校に教員として雇い入れてもらいたい」と頼んだ。

田口も同情し、地域の有力者たちに相談して夫婦を新宿小学校で雇うことにした。そのころの新宿小学校の校舎は機屋の跡を改造した二階建ての建物だった。田口はさっそく学校の勝手の方の座敷を掃除し、畳も新調して夫婦を迎え入れた。