日大アメフト部問題と「旧日本軍の組織と論理」の共通点が見えた

軍隊をまねた体育会系部活の不条理
菊澤 研宗 プロフィール

リーダーが陥っている不条理

おそらく、いずれもケースも上層部が指示命令し、部下がその命令に忠実に従ったのだろう。

しかし、なぜ上司はそもそもこのようなルール違反で非人道的な命令をおこなったのか。答えは簡単だ。彼らはいずれも損得計算し、その結果、その方が得だと考えたからである。

つまり、不正なことを命令し、実行させることが合理的だという「不条理」に陥ったのである。(このメカニズムについては拙書『改革の不条理』に詳しく解説している)

戦時中、日本軍の上層部は、海軍航空隊の若手兵士たちの実力では、到底敵を攻撃することはできないことを認識していた。それゆえ、損得計算すれば、若者たちを直接敵に体当たりさせる方が合理的だったのである。

同様に、日大アメフト部の監督・コーチは、現在の日大の選手の能力では関西学院大学には勝てないと思ったのだろう。それゆえ、損得計算すると、相手選手を直接ケガさせた方が合理的だと判断した可能性がある。

このような上司たちが行う損得計算の結果を部下に実行させることは、命令と服従の原理が浸透している組織では容易なことだ。

しかも、このような損得計算にもとづく意思決定は、ある意味で合理的で客観的で科学的かもしれない。というのも、この同じ状況に置かれれば、だれでも同じ損得計算を行い、同じ結果をえる可能性があるからである。

それゆえ、そのような損得計算にもとづいて客観的に命令しているリーダーは、その責任を取る必要性を感じないのである。

しかし、このような損得計算を行うには、はじめから人間を物体や備品のような消耗品として扱う必要がある。

損得計算の中に人間を組み入れるには、一人ひとりの人間がもつ固有の価値、個性、歴史、そして尊厳など、はじめかから無視する必要があるのだ。そうでないと、損得計算ができないのである。

このような損得計算を行動原理として、上層部は徹底的に行動していたために、戦時中、日本軍は世界でも最も人間の命を粗末にしていたのであり、特攻という人間を兵器の代わりにする前代未聞の作戦を行う鋼鉄の檻のような冷酷な組織だったのである。

その結果、どうなったのか。その過ちからいまだ学んでない組織として日本の一部の体育会系運動部があるように思える。

 

損得計算原理から価値判断原理へ

では、このようなルール違反で非人道的な命令に出くわしたとき、われわれはどうすべきか。

今回、加害者である日大アメフト部の宮川選手がその答えを示している。

彼は、命令を受けたとき、その命令に従うことが人間として正しいかどうか価値判断すべきであり、問うべきであったと述べた。それを問わずに、ケガさせれば試合に出しやるという上からの指示のもとに、彼自身が損得計算して得する方を選んでしまったのだという。

確かに、人間の行動原理として経済合理的な損得計算は必要ではある。しかし、それは人間の究極的な行動原理にならないことが、今回の日大アメフト部の事件で明らかになったのだ。

やはり、人間は、常に正しいかどうか、適切かどうか、価値判断する必要がある。そして、もし正しいと価値判断するならば、次にわれわれは何をなすべきか。その価値判断が、われわれに実践的行為を要求してくるのである。

このような内なる理性の声を聴いて行動したいものだ。そうすれば、悪しき命令はなされないし、それに従うこともないだろう。

このような価値判断にもとづく実践的行為は、それが主観的であるがゆえにまったく非合理的に思えるかもしれない。それゆえ、多くの優秀な人たちはこれを恐れ、避けようとする。

しかし、恐れるべきことはない。この主観的な価値判断、そしてそれにもとづく実践的行為に対して、われわれは責任をとればいいのだ。ここに、実は人間らしさ、人間の自由や自律があり、人間固有の尊厳や気品がある。

もちろん、無制約な価値判断にもとづく行為は、単なる子供のわがままな行動にすぎない。啓蒙された大人として主体的に価値判断にもとづく実践行為を行うためには、以下の2つの条件を常に満たす必要がある。

1) 価値判断にもとづく行為はその原因が唯一自分自身にあるので、その行為の責任は他でもなくすべて自分にあるということを自覚すること。

2) 価値判断にもとづく行為を実践するために、他人の自由や主体性を無視してはならないこと、つまり他人を単なる道具や手段として扱ってはならないこと。

これである。

以上のような原理に従っていたならば、冷たい鋼鉄の檻のような組織も、もっと温かいものになっていただろう。