セ・パ交流戦に思う「二大リーグ誕生の原点」

「プロ野球の父」の功績

「プロ野球の父」の功績

セ・パ交流戦がスタートして今年で14回目になります。交流戦が2004年の球界再編騒動の副産物として生まれたのは周知のとおりです。

1936年に産声をあげたプロ野球がセ・リーグとパ・リーグに分立したのは1950年です。1950年に新規参入を果たし、現存している球団としては、パ・リーグでは千葉ロッテ(毎日-大毎-東京-ロッテ)、セ・リーグでは横浜DeNA(大洋-大洋松竹-大洋-横浜大洋-横浜)、東京ヤクルト(国鉄-サンケイ-アトムズ-ヤクルト)、広島(広島-広島東洋)があげられます。

エクスパンションの旗を振ったのは「プロ野球の父」と呼ばれる正力松太郎さんでした。当時は日本プロ野球連盟の名誉総裁でした。

正力さんが日本球界初のエクスパンション(球団拡張)を計画した背景には、次のような理由があったと思われます。

「日本にも二大リーグを作りたい。日本球界の完全な発達をめざすには、やはりアメリカのごとく二大リーグを対立させた方がよいと思う。もちろん、八球団では足りないから、もう四球団増やしたい」(読売新聞1949年4月17日付)

 

正力さんの思いを加速させたのが1949年10月に来日したサンフランシスコ・シールズの圧倒的な強さでした。日本は巨人を中心に選抜チームを結成しましたが、結果は0勝7敗と大惨敗でした。

参考までにいえばシールズはコースト・リーグに所属する3Aクラスのチームでメジャーリーグの球団ではありませんでした。

この大惨敗が、日本のプロ野球にどれ程の衝撃を与えたのかについては、中国新聞の名物記者である津田一男さんが、後にこう述べています。

<コースト・リーグ(大リーグに次ぐ3A級)のそれも第七位のチームに今をときめく川上、別当、大下、藤村、青田、小鶴、西沢などを擁した全日本すら一度も勝てなかったことは、日本のプロ野球関係者に大きな示唆と教訓を与えたことはいなめない。井の中のかえるであった日本のプロ野球が、はじめておのれのほんとうの力を知ったのである。

日本のプロ野球を、本場のアメリカ並みに強くするにはどうすればよいか――それにはアメリカに習(ママ)って二リーグに分かれ、互いにハ(ママ)を競い合わねば強くならないという答えの比重が強まったことは争われない事実である>(中国新聞1969年11月29日付)

言ってみればシールズという黒船が球界にエクスパンションを促し、その帰結が2リーグ制だったとも言えるわけです。

蛇足ですが、この時、シールズ相手に戦い、後にプロ野球に進んだ選手の中に、今もご存命の方がいます。近鉄と巨人で投打の“二刀流”として活躍した関根潤三さんです。法大生の関根さんは全六大学選抜のエース格として親善試合に先発しましたが、残念ながら負け投手になっています。だが試合は延長13回にまでもつれ込み、2対4の惜敗でした。当時の六大学野球のレベルの高さを窺い知ることができます。

ところでシールズとはアザラシのことですが、今でもサンフランシスコ・ジャイアンツのマスコット「Lou Seal」に、その名をとどめています。