昭和の巨大メディア創業者が自伝編集者を「非常に困らせた」理由

【新連載】大衆は神である④
魚住 昭 プロフィール

祖父、森要蔵

父の好雄(よしお)は上総飯野藩(現・千葉県富津市下飯野)の藩士の三男。母の文(ふみ)は飯野藩の武術指南役・森要蔵(もり・ようぞう)の長女だった。好雄は森要蔵の内弟子だったので、妻の文は師の娘にあたる。

森要蔵は、もとは江戸詰めの肥後細川藩士の六男だが、北辰一刀流の千葉周作に師事して頭角を現し、神田お玉が池の千葉道場の四天王の一人と称された。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』などにも登場する剣客だから、司馬ファンならご存じかもしれない。

 

森は細川家を離れ、浪人となって諸国を巡遊し、天保11年(1840)、飯野の藩主・保科正丕(ほしな・まさもと)に剣術指南役として召し抱えられた。

森の声望はかなり高かったらしい。2万石の小藩にはもったいない存在という意味で「保科には過ぎたるものの二つあり、表御門に森要蔵」といわれた。江戸の麻布永坂に道場を開き、門弟は千余人に及んだ。森はこの道場から月に一、二度、馬で飯野藩に通ったという。

中村孝也は『野間清治伝』に、森の「剣は、人物の鍛錬と相俟(あいま)つて、殆(ほとん)ど入神の域に達してゐたと言はれる。遠近風を望んで、馳(は)せ参ずるものが多く、永坂の道場には、朝夕木剣の相撃つ音の絶えたことが無かつた」と記している。

白河口に死す

森要蔵が数えで59歳の慶応4年(1868)、戊辰戦争が起きる。錦の御旗を掲げて東上した官軍は江戸を無血開城させ、上野のお山にこもる彰義隊を壊滅させた。

次の打倒目標は、奥羽越列藩同盟を結ぶ東北諸藩である。飯野藩は会津藩と縁戚関係にあったこともあって、官軍に反感を持つ藩士が多かった。

野間好雄(清治の父)の長兄・銀次郎は、東征途上の官軍を迎え撃とうと、飯野藩士19名とともに脱藩して遊撃隊を組んだ。が、遊撃隊は官軍に蹴散らされ、飯野藩は官軍から責任者の処罰を要求された。年長だった銀次郎はその責を負い、飯野藩家老とともに切腹した。

森要蔵は、飯野藩の門弟ら総勢28名で会津藩の応援に駆けつけた。そのなかには要蔵の三男・寅雄(清治の母・文の弟にあたる)もいた。寅雄は数え年17歳ながら、文武両道に優れた剣士としてすでに世に知られていた。

慶応4年7月1日、東北の入り口・白河城下にほど近い雷神山で、会津攻撃に向かう官軍と、森要蔵が率いる飯野藩の一隊が遭遇した。

このときの要蔵・寅雄父子の壮絶な戦いぶりは、のちのち、清治をはじめとする野間家の人々の運命にさまざまな影響を与えることになるので、少し詳しく説明しておこう。以下は『野間清治伝』が「多くの記録の所伝」として記す戦闘の模様である。

<──森要蔵はこの日、雷神山の山中にいて、日の丸の軍扇を開いて隊兵十余人を指揮していた。それを見つけた官軍(土佐藩の八番隊)が喊声(かんせい)をあげながら押し寄せてきた。要蔵は奮然と蹶起(けっき)し、大声を発して敵中に斬り込み、瞬く間に大刀で三人を切って落とした。部下の隊兵もこれに励まされて一斉に斬り結んだが、衆寡敵しがたく、バタバタと前後左右に倒れた。

寅雄少年はつねに父・要蔵のそばにいて、父をかばって奮戦したが、味方の劣勢は覆いがたかった。寅雄は紅顔に朱を注いで、一声鋭く、

「父上! 突撃しよう」

と叫びながら、小刀をふるって斬り込んだ。その健気な姿を見た官軍の将兵は愛惜の念に駆られ、わざと道を開けて、寅雄が血路を開く機会を与えた。だが、寅雄は追っても払っても敵陣に踏み込み、ついに弾丸にあたって倒れた。

要蔵はそれを見て猛然と突進し、血だらけになりながら土佐兵と戦い、華々しい最期を遂げた。

土佐隊の監察は、せめて少年の命を取りとめようと、すぐに手当てを施したけれど、傷が重くていかんともしがたく、寅雄は父の後を追って死んだ。──>

要蔵と寅雄の最期の地は、現在の福島県西郷村(にしごうむら)下羽太(しもはぶと)地区といわれ、同地の大龍寺にふたりの墓はある(要蔵の墓は千葉県富津市の浄信寺にもある)。

官軍に刃向って死んだ飯野藩の遺族同士である野間好雄と、森文が結婚するのは、それから8年後のことである。

(つづく)