昭和の巨大メディア創業者が自伝編集者を「非常に困らせた」理由

【新連載】大衆は神である④

昭和初期、大衆メディアの世界で日本を席巻することになる講談社。その歩みには、日本における既成メディアの知られざる歴史が、縦糸と横糸のように織り重ねられている。

だが、この巨大メディア企業を生み出した創業者・野間清治、一筋縄ではいかない男だったのだ。ノンフィクション作家の魚住昭氏が極秘資料をもとに紡ぐ、近代メディアの深層。第4回は、自叙伝の編集者さえ困惑した野間の人格形成の背景に迫っていく。(第1回はこちら 第2回はこちら 第3回はこちら

 

にわかに裸になられては、非常に困る

戦前、日本の総雑誌発行部数の7、8割を自社で占めるマンモス出版社を創りあげた野間清治の半生についての公表データは、大雑把にいって2種類しかない。

ひとつは、本人が大正11年(1922)に口述した速記録をもとに昭和11年(1936)に上梓した自叙伝『私の半生』である。

だが、この自叙伝は、公刊まで14年かかっていることからもある程度察せられるように、講談社の幹部たちの厳重なチェックを受け、差しさわりのある口述部分は削られている。

『私の半生』を編集した加藤謙一(『少年倶楽部』の元編集長)は戦後、雑誌『ダイヤモンド』の編集部とこんなやり取りを交わしている。

編集部 つぎに野間清治さんの人となりについてお伺いしたいのですが、自伝の『私の半生』を読みますと、たいへん赤裸々な告白をされていますね。

加藤謙一 『私の半生』を編集したのは私なんですが、最初の原稿はもっとひどかったのですよ。たとえば沖縄時代のご乱行の告白などは、日ごろ初代(=野間清治)を尊敬し、大人物だと思っている私たちにとっては、まさに青天の霹靂、想像もつかないようなことが述べられてあったんですよ。社の幹部たちも、いくらなんでも、これでは出せない、ということになって、訂正を申し込んだんです。ところが、「この自伝で裸にならなければ、裸になるときがない。なんといわれてもおれは裸になって、これまでの行状のすべてを白状するんだ」といって、きかないんです。しかし、それでは困るんですよ。それまでご自分でも、『修養雑話』とか、『栄えゆく道』『出世の礎』『世間雑話』などを書いて、世間からはあたかも道徳の権化のように思われていましたから、にわかに裸になられては、非常に困る。

編集部 営業政策上からも……。

加藤謙一 困る。(笑)なにしろ講談社には幼年から青少年、大人にいたるまで幅広い読者がいますから。菊池寛先生のお子さんでさえ、日本でいちばん偉い人はだれかと聞かれると、野間清治社長と答えていたほどです。そこへもってきて、沖縄で連日連夜の料亭通いをして、「明治橋(=歓楽街に通じる橋)が落ちないか」とうわさされた、というような話が出たのでは、格好がつきませんよ。私は極力反対したのですが、どうしても承知されない。しかし、奥さんにも反対されて、やっとあの程度に落ち着いたんです。>

加藤が「まさに青天の霹靂、想像もつかないようなことが述べられてあった」と言う最初の原稿は、序章の冒頭に紹介した秘蔵資料の第3巻に「大正十一年 初代社長口述 野間清治自叙伝 (口述そのままのもの)」というタイトルつきで保管されている。

その内容は追って明らかにする。野間の半生に関するもうひとつのまとまったデータについて簡単に触れておこう。それは、野間が亡くなって6年後の昭和19年(1944)に編纂された『野間清治伝』だ。野間と同郷で、若いころから親交のあった歴史学者の中村孝也(こうや)(東京帝大教授)が講談社の依頼で執筆した約1100ページの大著である。

しかし、中村の伝記は”郷土の偉人”野間清治を描くことに偏するあまり、美談仕立てのきらいがある。伝記の記述は重要だが、それより、伝記執筆のため、中村や講談社の編集者が戦前に集めた関係者の談話速記録のほうが、野間や、彼の父母の実像をビビッドに伝えている。

その戦前の談話速記録も、全部ではないが、例の秘蔵資料のなかに残されていた。その内容も必要に応じて紹介していく。私が当面目指すのは、「日本の雑誌王」の光と影をできるかぎり正確に描きだすことである。

小学校の校舎の片隅で

野間清治は明治11年(1878)12月17日、群馬県山田郡新宿(しんしゅく)村(現・桐生市新宿)で生まれた。桐生の町はずれである。

今はJR桐生駅から南に1キロメートル余りの、住宅・商店などの混在地になっている。そこからさらに南西へ数百メートル下ると一級河川・渡良瀬川の土手にぶつかる。

私が訪ねたときは真冬だったこともあって、新宿周辺の通りはどこも閑散としていた。シャッターを降ろした店が目立ち、道を歩いている人も少ない。その割に道幅が広いせいか、それとも高層建築がないせいか、空がゆったりと広く感じられる。渡良瀬川の土手の上に立って上流を眺めると、赤城連山の青い、鮮やかな稜線が北西の空を横切っている。

清治の生家はもう新宿には残っていない。というより、彼に厳密な意味での生家はない。彼が小学校の校舎の片隅で生まれたからである。その経緯はこれから順をおって説明していく。