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なぜネット右翼は小泉純一郎を熱狂的に支持したのか

ネット右翼十五年史【6】

文筆家・古谷経衡氏が、現代日本の言論を語る上で避けて通れない「ネット右翼」の源流と内面を解き明かす、「ネット右翼十五年史」。

単なる「自民党支持」とも異なる彼らの政治意識を、自民党の派閥史と照らしながら考察した前回に引き続き、今回はゼロ年代前半の画期となった、「小泉政権」の果たした役割を見てゆこう。

 

「世界観」の核心を形作った

小泉純一郎が総理大臣に就任した2001年から、自民党清和会による内閣が本格的に発足した。

「反共タカ派」の色彩の濃い清和会は、必然的に、それまでの内閣よりも強く親米路線を志向する。清和会のいう「タカ派」路線とは、日米安保の堅持・強化を前提として、日米安保の枠内において自衛隊をより能動的に強化させることと、ほとんどイコールだったからである。

小泉政権下の2002年、日韓ワールドカップ大会が開催され、ネット右翼が誕生したのもこの政権下での出来事であるといえる。以来、「反共タカ派・親米」路線を強烈に標榜する清和会内閣の姿勢は、保守系言論人を巻き込みながら、ネット右翼の中心的世界観を形成するようになる。

その理路を明らかにするために、少し時計の針を戻そう。

田中・竹下派時代の1970年代には、一時的にではあるが日米関係に距離が出来た。米政府はニクソン・ショックで電撃的な訪中を予告したものの、米中国交回復は1978年(カーター政権)にずれ込んだ。

日中国交正常化はそれに先立つ事、6年前の1972年である。むろんこの時期、カナダを筆頭として、イタリア、西独、フランス、英国など欧州西側諸国はアメリカに先立って次々と台湾との断交、中国との国交回復に走った。しかしベトナム戦争で北ベトナムと交戦中であったアメリカは、アジアの代表的反共国家=韓国、フィリピン、南ベトナム、が台湾承認を続ける中、さきがけのようにして日本が中華人民共和国を承認した事に、警戒の色を露わにした。

また竹下派七奉行(=竹下登の後継候補)の一人であった橋本龍太郎は、村山内閣の後に組閣すると(1996年~98年)、当時の米ビル・クリントン政権(民主党)と鋭敏に対立した。

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当時は日米貿易摩擦が最高潮に達しており、米政府は「スーパー301条」を根拠に、日本車に100%の関税をかけると表明したのである。これとやり合ったのが橋本であった。日米貿易交渉に臨むにあたって、対日圧力を強める米通商代表部のミッキー・カンター代表が橋本首相の喉元に竹刀を突きつけるパフォーマンスを見せたのは、この象徴とされる。

また橋本は1995年に三米兵沖縄少女暴行事件が起ると、ビル・クリントンに在沖米軍の整理縮小を迫って、通称「SACO合意」を締結した。内容は普天間基地返還を柱とする沖縄の米軍基地の整備統合計画だが、その後北部訓練場(高江ヘリパッド問題)や那覇補給廠の返還は実施されたものの、最大の懸案である普天間返還は現在に至るまで実行されていない。

アメリカ側はこのような橋本政権の対米政策を快く思っておらず、これがクリントン政権時代の「ジャパン・パッシング」(1998年、クリントン大統領が中国を訪問し1週間以上滞在した際、日本を素通りした)に繋がったのは明らかである。

内政では橋本は不良債権処理に難儀し、また景気後退期に消費増税(5%、1997年4月)を実施した事により現在に続く「失われた20年」の責任者と批判される事もあるが、彼の対米政策は再評価されても良い段階に来ていると筆者は思う(橋本は2006年に急逝した)。