いま「発達障害」という概念を強く疑わなければいけない理由

いじめ研究の第一人者が問う
内藤 朝雄 プロフィール

この〈発達-環境〉調整障害スペクトラムという概念は、「発達障害」概念よりも、使い勝手がよく、副作用(たとえば前述の悪用や、後で述べる残酷な二者択一に人を追い込む可能性)が少なく、「人間にやさしい」精神医学をめざす現在の「発達障害」指導者たちの高い志にもフィットする。そして啓蒙もしやすい。学校制度の変革を促し、有益である。

〈発達-環境〉調整障害スペクトラムでは、放置された脳腫瘍の作用が影響する発達とその環境のような極端から、学校制度による中間集団全体主義環境とその影響下の発達のような極端まで、さまざまなものが連続体をなして分布している。これに対し、下位分類をつくることができる。

たとえば、学校固有の「こうでなければならない・ああでなければならない」を基準点として「こまり」がつくりあげられ、それが「発達障害」流行により精神科受診につなげられ、診断がなされることによって診断数が急増したところの――従来の「学校都合の発達障害」にあたるものは、

診断名: 〈発達-環境〉調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)

に置き換える。

この方法は、下位分類を作ることができて便利であるというだけでなく、次に述べる残酷で不当な二者択一という「発達障害」概念の欠陥をまぬがれる利点を有している。

つまり、「発達障害」という診断をし、人を「障害者」にすることによって過酷な虐待から保護するという斬新なひねりを入れた方法は、学校が合わない人に対して、「障害者」というレッテルを貼られるか、学校の共同体奴隷になるかという残酷で不当な二者択一を迫ることになる。

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私は「障害者」ではないし、かつ、学校の共同体奴隷にもならない(障害があるのは私ではなくて、私を「生徒らしい」生徒につくりかえようとする学校の方だ)、というきわめてまっとうな道を閉ざしてしまう。

もし学校が嫌なら、あなたは「障害者」になりなさい。「障害者」になるのが嫌なら、おとなしく学校の共同体奴隷(「生徒らしい」生徒)になりなさい、というわけだ。

「障害者」という言葉には、ナチによる虐殺から近年メディアで問題化された強制断種まで、すさまじく残酷で血なまぐさい記憶が付着している。

 

現在でも、不当な差別や蔑視が満ちあふれている。全社会を挙げてこれを払拭した後でなければ、多くの人は、学校の集団地獄から保護される交換条件であっても、「障害者」というアイデンティティを引き受けるのを躊躇するであろう。

もちろん、たとえ虐待防止に便利であるとしても、学校の集団生活に合わなくて「こまっている」という理由で「障害者」であるとする分類自体がまちがっていることは言うまでもない。

「発達障害」ではなく、〈発達-環境〉調整障害概念であれば、このような残酷な二者択一や、分類上の誤謬は生じない。ある意味、大手を振って、安全なしかたで「障害」という概念を使うことができる。