いま「発達障害」という概念を強く疑わなければいけない理由

いじめ研究の第一人者が問う
内藤 朝雄 プロフィール

障害「者」から障害「環境」へ

さて、現在では同性愛者を「障害者」と名づけることは、ひどい人権侵害とみなされている。

ところが、学校でじっと座って一日をすごすという曲芸をしない(「席についていることが求められる場面でしばしば席を離れる」DSM-5)人は「障害者」とみなされかねない。

さらには、空気を読もうとせず(「社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的な欠陥」DSM-5)、周囲の「みんな」から承認されないしかたで何かひとつのことに集中していて(「行動、興味、または活動の限定された反復的な様式」DSM-5)、周囲の「みんな」との軋轢で「こまる」と周囲の「みんな」から思われただけで、「障害者」と診断されかねない。

 

周囲の「みんな」と個人が軋轢を起こした場合、周囲の「みんな」には「障害」がなく、個人に「障害」がある。

これが世にでまわっている、学校都合で診断数が激増したところの「発達障害」というラベルである。まるで周囲の「みんな」は神であり、個人は無力なヨブであるかのようである。

「発達障害」を悪用すれば、神のような「全体」が個人を制圧する強力な武器になり得る。

このことは、「発達障害」概念の致命的な欠陥がどこにあるのかを指し示している。また、どこを改善すれば、本来の「人間にやさしい」精神医学に立ち返ることができるかを示す希望の改善ポイントを指し示してもいる。

つまり、「障害」のありかはどこにあるのかと問われた場合、それは必ず誰それの個人の中にあるとされ、環境にあるとはされないことが、「発達障害」概念の致命的な欠陥になっている。

現時点で、障害「者」という言い方はあっても、障害「環境」という言い方はない。

それでは、障害のありかを環境の方に押し広げればよいのではないか。これが、筆者による「発達障害」枠組みに対する改善案である。

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〈発達-環境〉調整障害スペクトラム

以下でそれを説明しよう。

環境をはなれた発達はなく、発達にとって無意味な環境は、少なくとも生物が生きることの側からは存在しない(たとえば動物の血を吸うダニの発達にとって空の星は存在しない(ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫)。

発達と身近な環境は相互に触発しあって展開する。その相互連関の展開がどうなりやすいかという方向づけは、学校制度や徴兵制度のような制度的環境が担っている。

そして、この、発達→環境、環境→発達の相互連関の展開を〈発達-環境〉と表記する。

そのうえで、新しい障害概念として、障害のありかを個人の中ではなく、この〈発達-環境〉の相互連関の中に求める。

そして、「障害」が個人の中にあるとし、誰それは「発達障害」者であるとする従来の「発達障害」概念を廃し、それを〈発達-環境〉調整障害という概念に代えるのである。

これはさまざまな構成要素がさまざまな程度で関連し合って連続的に分布するものなので、〈発達-環境〉調整障害スペクトラムと名づけるのがよい。