いま「発達障害」という概念を強く疑わなければいけない理由

いじめ研究の第一人者が問う
内藤 朝雄 プロフィール

第二に、現在の「発達障害」枠組みにおける環境調整という考え方は、環境に適合するように人間の内部を変えようとする従来の主要方針から、人間に合わせて環境を変える方向に向かう第一歩と考えることもできる。

筆者が子どものころ、戦前の日本を知る人から聞いた話に、こんなものがある。

「シャバ(軍隊以外の社会領域)では靴を足に合わせるが、軍隊では足を靴に合わせる」

この比喩は、そのまま学校と従来の精神医学にもあてはまる。

学校は本来靴と同様、一人ひとりちがう人間のためのものであるはずなのに、人間を学校に合わせてつくり変えようとする。

【事例1】を典型とする従来の精神医学も、これと同じ論理で人間(足)を学校(靴)に合わせてつくり変えようとする。

【事例1:他罰的な子へのいやがらせ】
若林らのもとに、「登校拒否」の中学生E子が来院した。
優等生のE子が通うのは、「いじめやいやがらせが横行する」「地域でも校内暴力で有名」な中学校で、さらに一番「悪い」と言われているクラスである。暴力グループに付和雷同する学級集団は、正義感の強いE子にとっては不正がまかりとおる場である。
E子は「教科書で頭を叩かれたり、足を引っかけられたりするなど、⋯生傷が絶えない」。それでもE子はいじめ加害者に屈服しないで逐一反撃する。それがさらなるいじめを誘発する悪循環を形成する。「保護者会で母親は、成績はよいが性格が悪いと言われた。E子としてはいやな人たちばかりだからしゃべらないだけだ」。このような状況下でE子は学校にいかなくなる。
若林らの「初診時所見」は次の通りである。
「⋯可愛らしいというよりは、気が強そうできつい子といった印象を受ける。学校のことや教師、生徒に対する不満がいっぱいという感じで、よくしゃべるが、他罰的で、少しふてくされたような態度がみられ、誤解を受けやすい子のようにも思われる。E子自身も、トイレに閉じこめられたり、仲間はずれにされた時に、泣けばよいのだけれども、『私は泣かない、それで、皆から同情されないと思う』と述べている」。
さらに若林らは、次のような言葉を用いてE子を臨床記述する。
「依怙地で他罰的」
「弾力性の乏しい態度」
「クラスや学校に対して協調的な態度がとれない」
「クラスへ適応しようという気持ちがないようで、周囲を寄せ付けない」
「E子の性格に問題がある」
「E子の非協調的な態度をE子にいかに自覚させるかということが課題である」。
(若林慎一郎・榎本和「他罰的な子へのいやがらせ」メンタルヘルス研究会編『メンタルヘルス実践体系5 いじめ・自殺』日本図書センター、1988年)

対して、現在の「発達障害」枠組みの環境調整という主要方針は、環境の方に働きかけて、虐待的な環境を和らげることをめざす。

これは、親へは指導、虐待的な環境となっている学校に対しては「ささやかなお願い」程度にとどまっており、構造的に虐待環境を蔓延させる学校制度を変革すべしという声は今のところ小さい。しかし、この声が大きくなる可能性がある。

 

学校で起こる「悪夢のシナリオ」

次に「発達障害」枠組みの問題点を考える。

たとえば、歴史をひもとけば、「保護」という名目を用いて、監禁、拷問、虐殺をするようなことは枚挙にいとまがない。

それと同じように、末端の現場では、人間を〈学校のもの〉にする中間集団全体主義のしもべたちが、新しい「発達障害」のストーリーをそとづらのラベル(名目)に利用して、別の用途に組み込み、つくりかえ、従来通りどころか、さらに細かく人を支配する力を手にするかもしれない。

「発達障害」枠組みが、社会のすみからすみにいたるまで、学校にあわない人を早期発見し、早期適応訓練を強制して学校にあうように変えなければならないという圧力装置に転化し、学校の全体主義からのがれる逃げ道が徹底的にふさがれてしまう――これは、将来実現するかもしれない悪夢のシナリオである。

本稿で筆者が描いてきた学校全体主義の現実感覚・秩序感覚を生きる者たちが、「遺伝子の関与が大きく神経生物学的な基盤を有すると精神科のセンセイが言っている精神障害者どもによって、私たちの学校がかき乱される、私たちの世界が壊される!」と被害感と悪意を抱いたとき、教育という――他人だけでなく自分をもだまして良心を麻痺させる――カモフラージュのもとで何をするだろうか(筆者は福井県池田町の事件で、加害者はうすうすわかっていて痛めつけたのではないかと疑っている)。

少人数の精神科指導層中心部と広大な周縁部の人口の多寡を考えてみよう。現在、医学生や医師を指導し、著作や学会などで方針を導き啓蒙する精力的な指導者たちの新しい「発達障害」枠組みは、大学や学会や医学専門書店の棚では主流であるかもしれない。

しかし、中間集団全体主義の広大な現場では、【事例1】が典型となる従来の習慣と行動様式が優勢になる、盤石な基盤があるのかもしれない。

実態は、前者と後者の(生態学的な)混在とせめぎ合いであり、同じ人でもそのときどきでちがった対応をとると思われる。まだらボケのように、前者のたてまえのなかに、後者が突然あらわれたりするのが常態であろう。

現場では、中間集団全体主義の場である学校との「良好な」連携関係を必要とすればするほど、構造的に、後者のタイプに引き寄せられるのではないだろうか。

さらに医師向けの教科書を執筆するような中心部にも従来の思考法が残存している。

たとえば、最新の教科書『データで読み解く発達障害』(中山書店)には、「定型発達」に近づくことを改善と称していたり(p.18)、学校でじっとしていなければ薬を飲ませるのがよい(p.192)とする箇所がある。こういった箇所では、人間の多様性はやっぱり却下されている。

また、人類史的には曲芸に近い、45分か50分座って動かず、一方的に他人の話を聞くのを数クールくりかえして一日を過ごすという動物実験的な環境にあわない場合は、薬物で脳を変化させることを勧めるといった極論が「あたりまえ」になされている。

画一的な一斉授業があわないのであれば、個別学習にきりかえればよいだけではないだろうか。薬で脳を変化させてまで、動物の曲芸のような着座儀礼を強いる方がおかしいのではないだろうか(もちろん脳を薬で変えなければならないのは、そのようなことをすべての人に強いる学校制度の方である)。

「人間にやさしく」なったはずの精神医学は、その中心部でさえ、あやうい均衡のもとにあると思われる。地球規模で社会の再全体主義化が進むなかで、今の流れが、いつ【事例1】の方向に逆転してもおかしくない。