金持ちのはずなのに…勤務医たちのあまりに悲惨な「食事事情」

覆面ドクターのないしょ話 第18話
佐々木 次郎 プロフィール

病院の生命線は、高カロリー中華

「おやっ?」

とある中華料理屋チェーンの前を通ったら、思わずポスターのメニューに見入ってしまった。「ラ・餃・チャセット」と書いてあった。「ラ」(La)に続く「ギョウ・チャ」(Gyocha)がスペイン語の女性名詞のような響きを持っている。

「ラ・餃・チャセット」とは、半ラーメン・餃子3個、半チャーハンのセットのことで、値段は550円。極めて良心的だ。

 

ラーメン・チャーハン・餃子はいずれも私が大学病院に勤務していた頃、毎日のように食べていた……いや食べざるをえなかったルーティーン・メニューだった。グーグルの社員食堂はビュッフェ・スタイルらしい。大学病院にあんな社員食堂があったらよかったのに…。

大学病院に勤める若い医者の勤務実態は、ブラック企業並みだ。時給換算すると、マクドナルドのアルバイト代にはるかに及ばない。

その日は朝から手術室にこもりっきりだった。手術室から出たのが夕方6時。

「やれやれ、もうこんな時間か。やっと飯にありつけるぜ!」

すると後ろから病棟長に呼び止められた。

「おい、次郎。今からカンファレンスだ。外来に集まれってさ」
「今からですか~? 昼飯食ってないんですけど……」
「文句なら教授に言え」
「言えるわけないじゃないですか!」

慌てて自販機まで全速力で駆けて行く。ポケットから小銭を出し、甘い缶コーヒーを2本買った。へたをするとこれが夕食になる可能性もある。2本とも一気に飲み干し、カフェインで目を覚まし、糖分で血糖値を上げて戦闘態勢完了。

「あ~、早く人間らしい生活してぇ!」

俺は妖怪人間ベムか?

またある時のこと。先輩と一緒に病棟回診に行った午前中。10時に回診が終わった。するといきなり先輩がこう言った。

「次郎、昼飯食おう!」
「えっ? 先輩、まだ10時ですよ。早くないですか?」
「たぶん俺たち、今日はもうシャバには出て来れないぞ。食えるときに食う、これが鉄則だ」
「げっ!」

油断していた。午後に長い手術が控えていたのだった。腹が減ってもいないのに、職員食堂で大盛りカレーを胃の腑へ流し込んだ。

大学病院での生活とはそんな毎日だった。味気ない言い方をすれば、大学病院の医者にとって食事とはATP(アデノシン三リン酸=エネルギー)産生以外の何物でもなく、ロハスなんて夢の夢だった。大学病院は人間らしい生活を送れる職場ではないのだ。

「お医者さんって、激務なのによく体がもちますね?」とよく聞かれる。実は……もちません! ほとんど壊れかけているはずだ。だが、何とか乗り切っている。医学部を卒業するまではあんなに勉強したのに、医者になってみたら、数学の微分積分どころか、頭なんかほとんど使ったことがない。外科医、特に勤務医は、「一に体力、二に体力、三四がなくて五に体力」ーーとにかく体力勝負の毎日だ。

手術中はアドレナリンがバンバン分泌されて、人間の欲望も生理現象も消されてしまう。さっきまでズルズルだった鼻水もピタッと止まるし、愛煙家の医者でさえ手術中タバコを忘れる。日頃、下痢気味の体質でも屁の一つも出なくなる。ところが、手術が終わってホッとすると、なぜか鼻水が復活するし、愛煙家は喫煙室に飛び込み、胃腸虚弱者は急に下痢を催したりする。

夜遅くまで仕事をしていると、先輩たちが出前を頼んで、よく夕食をおごってくれた。

だが当時(今から30年前)、夜に出前をしてくれる飲食店は近所にほとんどなかった。昼間は隣の蕎麦屋とか角のラーメン屋、向かいのカレー屋も営業しているのだが、夜になると食料の調達は困難を極めた。

「先輩、店のチョイスないですけど……」
「『バン』でいいじゃん」
「また『バン』っすか? あ~うんざりだ!

口を尖(とが)らせて言う。

「文句なら教授に言え」
「言えるわけないじゃないですか!」

美味いものを食べたいなんて贅沢は言えない。飢餓から救ってくれる店、その唯一の店が「万来軒」だった。病院から300 mほど離れたところにある中華料理店だ。通称「バン」。

万来軒の出前は迅速かつ正確だった。「出前、まだ来ないんですけど」と店に問い合わせて、「もう出ました!」と店側に言われるのはよくあることだが、万来軒は違う。電話した料理はすぐに届いた。

「ラーメンとチャーハン2人前ずつ、餃子5人前……でお願いします」
「毎度あり~!」

さてその間に雑用でも……と思う間もなく、

「お待ち~っ!」

背が高く髪の薄い出前のおじさんが汗だくの状態で医局に入って来た。

「もう来たの!? 早ぇ~っ!」

さっきからドアの外で待ち伏せしていたかのようなこの早業! どうしてこんなに早いんだろう?

注文を受けると同時に、配達のおじさんはホンダ・スーパーカブに乗って発車待機しているのだろうか? いや、それではあの迅速配達はできまい。あの早業は、いまだに解き明かせない謎だ。

さて、ある日のこと。その日の手術も長い手術で、朝の9時にスタートして終わったのが夜の9時、12時間もかかった。手術に入った6人全員、当然昼飯は抜き。夕食の時間もとうに過ぎようとしている。さっきまで緊張で、空腹感などまったくなかったのに、手術が終わって安堵感に包まれた途端にグ~グ~腹が鳴りだした。

「腹減った~」
「俺、飢え死にするかも」
「食える物、何かある?」
「あるわけないじゃん」
「何か食いてぇ!」
「『バン』しかないっしょ」
「だよなぁ~」

術後の回診が落ち着いたのが夜の10時。夕食は迷うことなく万来軒になった。電話したらルーティーンのように超高速で出前が届いた。

「ここのチャーハン、相変わらず油ギトギトだなぁ」
「DM(糖尿病)・ハイパーテンション(高血圧)まっしぐら!」
「俺、すでに脂肪肝だよ」

万来軒のチャーハンは美味い……なんてお世辞にも言える代物ではない。だが、今、口に入るものはこれしかないのだ。さらにラーメンと餃子。空腹のあまり、今夜は酢豚まで注文してしまった。まるで「医者の不養生」を体現するような食生活ではないか。

「ザ・医者の不養生飯」(photo by istock)

今日はこのまま病院に泊まる。万来軒の高カロリー・高血糖・高塩分・高脂肪食を胃袋に充満させて、明日につなぐのだ。

「豚になっても生き延びろって誰か言ってたなぁ」
「俺たちには万来軒しかないんだ。この病院の、いや俺たちの生命線なんだ」
「食おう!食って生き延びるんだ!」

迷いを振り切り、戦う外科医たちは全員油ギトギトの料理を胃袋にかき込んだ。