画/おおさわゆう

金持ちのはずなのに…勤務医たちのあまりに悲惨な「食事事情」

覆面ドクターのないしょ話 第18話
お医者さんは、ベンツに乗って高級レストランで高いワインを飲みながらフランス料理を味わうイメージがある。実際、開業医にはそんな医者もたくさんいるだろう。しかし、大学病院や総合病院の最下層に位置する若い勤務医の実態は、びっくりするような安月給で、体力の限界に挑むような長時間労働を強いられている。そんな彼らのいじましくも悲しい食事事情を、次郎先生の実体験から語ってもらった。

「あぁ……牛丼食いてぇ!」

病院の業務が忙しすぎて、まともに食事が摂れないと、本当に誰かを呪いたくなる。食い物の怨みは恐ろしい。とりあえず恨みの矛先は教授に向かう。

「教授! たまには俺たちに美味い物でも食わせろーっ!」

小さな診療科では当直は一人で担当する。外科や内科など大きな科の場合、オーベン(指導医)とネーベン(若い医者・研修医など)が一組となって当直することが多い。また、当直担当でなくとも、その日に手術を執刀した医者は、自主的に病院に泊まり込むのが、私が研修医だった頃の習慣だった。

 

例外的だが、ごくたまに、先輩たちが皆帰ってしまい、夕方から一人ぼっちで当直する日もあった。

その日の手術は8時間かかった。

「今日も昼飯食べられなかったなぁ。夕飯どうしよう? 職員食堂は閉まっちゃったしなぁ。でも一人のときに万来軒の出前は頼みたくないなぁ」

万来軒とは病院のそばにある医局御用達の中華料理店で、どの料理も油ギトギトだった。

そのとき、ムラムラと、ある邪念が湧いてきた。

「外に買い物に行っちゃまずいのかなぁ?」

ダメだろ、そんなこと、常識だ。一応救急室の看護師さんに聞いてみた。


「ちょっとだけ外に買い出しに行ってもいいのかなぁ?」
「ダメに決まってるじゃないですか!」

けんもほろろに却下されてしまった。ダメだと言われると行きたくなるのが人情。余計に行きたくなる。30分経過。

「それにしても今夜は静かだなぁ」

よこしまな思いは風船のように膨らみ続け、頭の中が爆発寸前になった。

「あぁ……牛丼食いてぇ!」

病院からわずか100 mほどの所に「牛丼の○○家」がある。昼間は忙しさのせいで何とも思わないのに、今日はどうしたのだろう? 一人ぼっちで、これほど当直が平和だと、無性に食べたくなる。もしかして○○家の牛丼には禁断症状を起こす薬でも盛ってあるのか?

「ちょっとだけだから行っても大丈夫だよ」
「救急来たらどうするんだよ」
「○○屋はすぐそこなんだぜ。問題ないよ」
「君は医者の風上にも置けないな」

悪魔次郎と天使次郎が真っ向から対立する自問自答が始まる。

今日は自分一人だ。教授も先輩もいない。

「だ~れも見ちゃいねぇよ」

よし、決めた!

「賽(さい)は投げられた! ルビコン川を渡って進め!」

白衣のまま上からコートを羽織った。医局のドアを開けると、いきなり隣の医局の医者とすれ違った。その瞬間の罪悪感。思わず顔を背けた。おっと、まだ首に聴診器をぶら下げたままだ。慌てている。犯行は計画的にやりましょう。エレベーターを使わずに、非常階段で1階までダッシュ。守衛さんが敬礼する。

「先生、御苦労様でした」
「ど、どうも」

私も右手で敬礼するふりをして顔を隠し、うつむきながら退勤を装って守衛さんの前を足早に通り過ぎる。ここからが勝負だ!


「名を惜しむな、肉こそ惜しめ!」


大通りに出たら、あとは吉牛までの一本道。全速力で○○家を目指して駆けていく。10 m、20 m……。

「どうしてこんなに走りにくいんだ?」

そのときになって気がついたのだが、手術室のサンダルを履いたままだった。やがて○○家のオレンジ色の看板が見えてきた。

「もうすぐだ。待ってろ、牛丼~!」

ハァハァ、ゼイゼイ。着いた。

「いらっしゃいませ」
「ぎゅ、牛丼大盛り、つゆだくで」
「大盛りひとつ~っ!つゆだくぅ」

息が切れる。

「はぁはぁ……なまぁ……卵ひとつ」
「生ビールと卵おーっ」

「ち、違うっ! 生卵です! ビール飲んだら殺されます! それから、お、おしんこもください」
「かしこまりましたぁ」

早く、早く! こんなときに限って救急室から電話が来るかもしれない。看護師さんが俺を探して病院中に電話しまくってるかもしれない。

「次郎先生に連絡が全くつきませんでした」

などと、明日、看護師長さんに報告されたら面倒なことになるぞ。へたすると、守衛さんが全館放送で俺を捜し始めてしまうかもしれない。そんなことになったら、俺は教授室で軍法会議にかけられておしまいだ。

早く帰らなきゃ。お店のお姉さん、早くしてくれい! 今日はどうしてこんなに遅いんだ? ただ自分がそう感じるだけなのか?

 君がため 惜しからざりし お肉さえ 早くもがなと 思いけるかな
(お姉さん、あなたのためなら惜しくはないお肉ですが、早くしてって感じです)

おいおい、佐々木次郎、平安貴族みたいに悠長に和歌を詠っている場合ではないぞ。

「お待ちどうさ……」

私は牛丼を引ったくるように受け取り、また全速力で病院に駆け戻った。

「へへへ、今日の夕飯は牛丼だ」
「卵もおしんこもあって最高!」
「早く牛丼食いてぇ」

牛丼屋さんが全国にフランチャイズ展開を始めてのが1973年。約半世紀にわたって日本人の胃袋を支えてきた(photo by istock)

病院に到着すると、守衛のおじさんはまた敬礼してくれたが、挨拶もしないで走り過ぎた。再び非常階段で医局まで一気に駆け上がる。そして医局に生還!

「やったぁ! 牛丼、ゲットしたぜ!」

どうだ!とドヤ顔を見せたくても、ここには私以外誰もいない。

「そうだ、救急室!」

息が上がっていたので、深呼吸した後、平静を装って救急室に電話する。

「あのぅ、佐々木です。救急来てませんか?」
「来てません。あれっ? 先生、捜したんですよぅ!」
「えっ? 捜した?」

まずい……捜されていた。

「本日の救急は全面ストップです」
「どうして?」
「ついさっき、レントゲンの機械が故障しちゃったんです。だから急患受けられないことをお伝えしたかったんですが……先生、どこ行ってたんですか?」
「ど、どこって、あちこち駆け回ってて、エヘヘ……この病院広いからねぇ」
「まさか○○家とか?」

げっ!

「……なわけないですよねぇ」
「そ、そんなわけ、あるはずがないよ、アハハ」
「あ~、私も牛丼食べたいなぁ」
「ごめ~ん、病棟に呼ばれたみたい。じゃ、これで」

まさかバレてる!? いやいや、そんなはずは……。

それにしても救急ストップとは……それならそうと早く言ってよぅ! こんなに走らなくてすんだのに……。