キリストは青森で死んだ?今年で55回目、日本屈指の奇祭をご存知か

観光イベントにすぎないと思いきや…
岡本 亮輔 プロフィール

キリストは日本人なり? 日本で死んだ?

キリスト渡来伝承は、古くから新郷村に存在していたわけではない。1930年代に「発見」されたものだ。1934年10月、戸来村村長が日本画家・鳥谷幡山(とやばんざん)を招く。

当時、十和田湖周辺の国立公園指定の動きがあり、村長としては、戸来村に属する迷ヶ平の自然林が十和田湖と深い関係を持つことを周知するために、いわば広告塔として、十和田湖を題材とした絵で知られる鳥谷を招いたのだ。

しかし、鳥谷は思わぬ働きをしてしまう。

鳥谷は偽書として知られる『竹内文書』に親しんでいた。『竹内文書』は天津教を興した竹内巨麿(きょまろ、1875~1965)の家に代々伝わるものとされる。

神代文字という特殊文字で書かれ、神武天皇以前の歴史など、一般には明かされていない真の歴史が書かれているとされるが、おそらく巨麿の創作だ。

文書によれば、キリストだけでなく、釈迦・孔子・孟子・モーセなども日本で修行したことがあるという。

 

鳥谷は、『竹内文書』で書かれた古代の神都が十和田湖周辺にあったことを実証しようとし、まず大石神ピラミッドを発見する。

そして、さらに詳しい調査を行うため、翌年の夏、鳥谷は巨麿と共に村を訪れる。巨麿たちは雇い入れた自動車で戸来村に向かう。そして、長峯部落にさしかかった一行は、地元で墓所舘(ハカドコダテ)と呼ばれる12メートルくらいの丘に登る。

高台の上には丸塚が2つ並んでおり、それを見た巨麿は黙祷をした後、「ここだ、ここだ!」と力強く宣言したのであった。

その夜、戸来村の旅館で開かれた懇談会には、村人も含めて30人あまりが参加した。巨麿たちは、村人から地元の伝承や不思議な地名などを聞き出し、翌日以降も神都の証拠を次々と発見してゆくのである。

この神都調査の様子は映画化もされた。発見から4年後、新聞記者・劇作家・脚本家として活躍した仲木貞一が『キリストは日本人なり?――その遺跡を探る』という本を出版している。

仲木の訪問時には、丘の麓に「基督(キリスト)墓所入口」と白ペンキで書かれた棒杭が立てられ、2つの塚の横にも十来塚、十代塚と書かれた棒があった。

そして、現在伝承館がある場所はキリストが暮らした館跡とされ、発掘された水瓶や石の供物台などがユダヤ文化に特有の遺物として戸来村役場で保管されていたという。

キリストの里伝承館

そして仲木自身がプロデューサーと脚本を務める形で、国策文化映画協会が『聖灯に捧ぐ』という映画を制作した。キリストの遺跡発見を追ったドキュメンタリーで5時間近い超大作のようだが、実際に公開されたかどうかはわからない。

このように、キリスト伝承は戸来村で受け継がれてきたものではなく、偽書に基づき外部の人々よって発見された。したがって、キリスト伝承はすぐに観光資源になったわけではない。

キリストの墓に再び光があたり始めるのは1970年代のオカルト・ブームを経た後だ。戦後、新郷村のキリスト伝承を比較的早い時期に取材したものとして、『毎日グラフ』(1973年12月23日号)に「キリストは日本で死んだ」という記事がある。

『竹内文書』に基づくキリスト伝承と共に村の習俗が紹介されている。子供を初めて屋外に出す時に御守りとして額に墨で十字を書く風習、「ハラデ」と呼ばれる農作業時の独特の服装、ナニャドヤラ節などで、これらが大判写真と共に紹介されている。

この記事の時点で、キリスト伝承は、すでに荒唐無稽なものとして紹介されている。

村にはキリスト教徒が昔からいないことが冗談めかして書かれ、記事に登場する村人の語りも「村人は誰もキリスト伝承を信じていない」といったもので占められている。

その後もキリストの墓は、オカルトやフィクションの題材となった。有名作家のものとしては、斎藤栄『イエス・キリストの謎』(1974年)、高橋克彦『竜の柩』シリーズ(1989〜2006年)などがある。