エリートの階段に乗り遅れた男が、沖縄から上京して見た夢

【新連載】大衆は神である③
魚住 昭 プロフィール

<しかもかれは、遊廓を宿舎とし、まいにちそこから酔っぱらって出勤した。かれももちろん、いいかげんな検定をうけて流れてきた部類なのだが、収入は一月四十円か五十円とっていたはずで、遊廓にとまっても、一ヵ月十円ぐらい、一里の道を車でおくりむかえされ、さんざん酒をのみ、女あそびをしても二十円ぐらいですんだときだから、らくにやってゆける。だからかれのような人間にとっては、琉球はたしかに天国であったろう。しかし、われわれにとっては、地獄であった〉(『獄中十八年』)

 
沖縄にいたころの野間清治(写真左)

彼らはまだ自分が何者であるかを知らない

野間の東京生活がはじまった明治40年10月、20世紀の新聞・出版界の主役となる4人が本郷界隈にそろった。彼らはまだ自分が何者であるか知らない。互いの顔も名前も知らない。

岩波茂雄は哲学科の選科3年目。下宿先の娘である赤石ヨシと、この年の春に結婚し、10月から本郷弥生町(ほんごうやよいちょう)に新家庭を営んだ。

滝田哲太郎もすでに、少年のころから恋していた同郷の阿部千代子と結婚して家庭を持ち、政治学科に籍を置きながら、駒込西片町の中央公論社で働いていた。

独法科に入ったばかりの正力松太郎は、同年11月10日、柔道の聖地である講道館(当時は小石川区下富坂町(しもとみさかちょう)にあった)に入門し、翌年1月には初段、11月には二段に昇格した。

四人のなかで最も年長の野間清治は、新妻の左衛と二人で友人宅二階の三畳・六畳の二間に住み込んだ。彼は帝大の書記で一生を終わるつもりはさらさらなかったらしい。

自室のふすまに墨筆で大きな握りこぶしを描き、「名を摑(つか)まんか。金を摑まんか。庶幾(こいねがわ)くは両者共に摑まん」と書いた。

野間を衝き動かしているのは、身のほど知らずの野心である。しかし、その野心があったからこそ、彼は岩波書店や中央公論や読売新聞とは異なる、新たな大衆文化の地平を切り開くことになる。