エリートの階段に乗り遅れた男が、沖縄から上京して見た夢

【新連載】大衆は神である③
魚住 昭 プロフィール

<俸給は近々一級昇るはず、校長より信用厚く、同僚と仲よろしく、ずいぶん向上的の心さえ抑えつくれば愉快なる境遇に候。これでワイフでももらえば小金くらいはたまる次第。しかしもう一度東京に出てやってみてしくじってからでもまた教師はできる次第。まだ少し元気のあるうちに出かけた方がよろしからずや。右至急ご助言下されたく、いったい小生は何をなしたらよろしく候や。難しくて妙な質問、自分でなければわからぬようの質問に候えども、大兄なればあえてお尋ね申し上げ候。

  ○倫理学者

  ○俳優

  ○講談師

  ○政治家

  ○教育家

  ○事業家

つじつまの合わぬようのこと長く申し述べ、御返答に悩まるる御事と察し候えども、今夜将来を思い、心配にたえかね、褥(しとね)より起き出でて、燈火に急ぎ認(したた)め候次第、よろしくご判読のうえ、なにとぞご教示くだされたく候〉

 

学歴エリートの階段に乗りそこねた青年の揺れる心中をあけすけに語る手紙である。行間にどこかしら愛嬌やおかしみが漂う。人の微苦笑をさそう諧謔味が彼の持ち味である。

しかし、だからといって、野間の奔放なふるまいを沖縄の人びとすべてが大目に見ていたわけではない。次は日本共産党の指導者として有名な徳田球一(とくだきゅういち・沖縄県立中学出身)の証言である。

〈琉球というところは、中学の先生はほとんどよそからきた人だから、琉球人を特別に軽蔑するので、われわれはいつも団結して反抗した。その先生どもは、いずれもいいかげんな検定をとって琉球に流れてきた連中なので、質がわるく、高師(=高等師範学校)をでたものは十五、六人のうち二、三人で、大学など出ていようものなら、くるとすぐ首席か校長になってしまうというありさまだった。

そのなかでも、とくにわるい先生だとおもったのは、のちに講談社の社長となった野間清治だった。野間は私が中学一年のときの漢文の先生だったが、漢文などはほとんど知らない。教室では石童丸(いしどうまる=出家した父を探して幼子が高野山を訪ねる仏教説話)の話や、講談、なにわぶしのようなことばかりやっていた>