「親として涙なくして見られない」

今回、会見を見て、「子を持つ親として涙なくしては見られなかった」と言った私の友人がいました。Twitter上にも会見中から「親の気持ちになると胸が張り裂けそう」「自分が親だったら止めてあげたいくらい」といった親の立場からの悲痛ともいえる書き込みがあふれました。自分の子どもが相手に怪我を負わせたことへの責任と、自分の子どもが意思に反する行動を強いられたことへの憤り、非を押し付けられたままの理不尽さ。複雑に交錯する親御さんの気持ちを思うと、私もいたたまれない気持ちになります。

この記事の冒頭でも触れたとおり、日大選手は会見で、監督やコーチを責めることはありませんでした。それも含めて立派だったと思うのですが、監督やコーチを悪く言わなかったことについて、別の見方を持ち込めば、そういうことが言えない関係性の中にいまだ彼がおかれていると見ることもできます。

ご両親や弁護士が彼の気持ちを支え、行動を共にしてくれていることで、冷静さや客観的な判断を取り戻しつつあるように見えますが、歪んだ大きな力に押しつぶされた影響は、簡単にぬぐいきれないと考える方が自然かもしれません。

そんな中で、周囲のサポートがなかったり、誰にも言わず子どもが一人で抱えてしまったりするような場合、親として何ができるのでしょうか。

苦しむ子どもに親ができること

今回の日大選手は、件の試合後まもない段階からご両親の協力を得て、問題解決に臨もうとしていたことがわかっています。

しかし、子どもがふさぎ込んで何も言わない、関係者からも納得のいく説明が得られないといったような場合、親は子どもがやってしまった行為ばかりを責め立ててしまう可能性があります。自分の子どもが誰かを傷つけてしまったことに対するショックを、我が子に対する怒りとして発露してしまうのは、ある意味、仕方のない親の側の心の機微ですが、善悪の分別があるにもかかわらず、加害行為をしてしまうという今回のような状況では、子どもを責め立てても、百害あって一利なしと言えます。

会見の中で、退部の意思を伝えたというこの日大選手に、「関学側が許してくれたらアメフトをしたほうがいいんじゃないか」と質問した記者がいました。彼の自分を責めるばかりの言葉に、思わずそんな声をかけたくなってしまったのかもしれません。このように、過度な自責感を抱えている場合、「あなただけが悪いのではない」「そんなふうに考えなくてもいいのでは」と声をかけ、気持ちをやわらげ、客観的な目線を入れてもらうことは大切です。

それでも、理不尽な現実を前に、一人で抱え込もうとする様子があるときには、アドボケーター(代弁者)となることも一案です。親が社会とのつなぎ役をしながら、子どもは大きくなっていきます。被害にあったとき、社会に向けて声をあげることは簡単ではありません。被害選手の保護者が会見を開き、選手の様子や言葉を一部伝えたのもアドボケートのひとつだったのだと思います。

親といえどもできることには限りがありますが、まずは自身が冷静になること、何があったのか、その話を聞くことも含め、子どもを支えようとする態度を見せることは、犯してしまったことへの償いを果たすためにも大切になってくるのではないでしょうか。

そして、最後に。今回の日大アメフト部の問題は、指導者と選手という関係とはいえ、大学という高等教育機関で起きたことを踏まえると、就労関係で使われるパワー・ハラスメントではなく、アカデミック・ハラスメントと呼ぶ方が適切なのだろうと思います。教員や指導者など力のある立場の人が、不当な行為で学生の就学を困難したり、その尊厳を傷つけたりすることをアカデミック・ハラスメントと規定している大学は少なくありません。

その意味では、日本大学が第三者委員会を立ち上げ調査に乗り出していることは一定に評価できますが、選手の会見後、大学側から出されたコメントが、力のある側の目線に立った言い分であるように思えたのは、おそらく私が被害相談を受けることの多い立場だからというわけではないだろうと思います。

繰り返しになりますが、ハラスメントにはグレーゾーンがあります。厳しい指導とハラスメントの境目がどこにあるかの判断は難しいところもあります。今回の件では、日大選手が言っていた「信頼関係はわからない」という言葉が、「指導」とは言えないのではないか、と感じさせるヒントにもなるように思います。

だからこそ、大学は高等教育機関として、理不尽な力の前にひれ伏してしまうことのある学生の立場に立って問題解決をはかる目線も持ってほしいと思います。陳腐な表現になりますが、これから社会に出ていく彼らにとって、今回のことが取り除くことのできない足かせにならないことを願うばかりです。