私がもしこの『星野君の二塁打』を授業でやるとしたら、ただ読めばいいんです。テーマを「星野君の二塁打を読んで」、として、「みんな、読んでどう思った?」と聞く。まさに教科書を「使う」ことで、多様な意見が出てくる、良い授業になると思いませんか。

大空の全校道徳でやるんだったら、音読の上手な先生に読んでもらいますね。6年生は教科書をもっていますよね。6年生がリーダーとなって1年生から全学年が集まるグループにわかれるから、1年生2年生が「あれってなんなん?」といったら6年生が「あれはな」って教科書を開いて教えてあげられるでしょう。
大切なのは「どう思う?」ということと、意見を出し合うことなのですから。

「星野君の二塁打」を題材として、先生や学校の言うことをすべて聞かなければならない、というふうに導かれるとしたらそれはおかしくなってしまいますね。東日本大震災で、津波のときの小学校のことを思い出してしまいます。もちろん先生の話をきちんと聞いて理解するとか、他人に迷惑をかけないことは大切ですが、何より自分で考え、行動することができなければいけないのではないでしょうか。

教科書「を」ではなく教科書「で」。これは文科省が長い歴史のなかで教員に伝えていることです。文科省は出版社の教科書の意図を組んで教員に教えろと言っているのではないのですから、それを使って子どもたちに考えさせればよいのです。

「みんなの学校」と呼ばれる、大阪の大空小学校©関西テレビ放送

教科書よりも大人がお手本になる

何もわからない判断基準のない子どもに「刷り込む」ことは学びではありません。教科化された道徳で目指す人間像は「単に忠実に国に仕える人材を作りたい」と言うことではないはずです。むしろ、主体的対話的深い学びをしていけば、時には国の意見に対して疑問を感じることもあるでしょう。

しかし、考えることを学ばせることが、自国を愛せないことになるというと、まったくそうではありませんよね。逆に言えば、国歌を歌ってさえいれば、子どもは日本を愛するでしょうか。国歌がダメということではなく、日本を愛する子をつくるには、国家を歌わせることよりも何より、目の前の大人の人たちが憧れられる、尊敬できる存在であることが大切なのではないでしょうか。嘘をつかない、思いやりがある、ルールを守る。子どもたちに教えたいことを体現している大人が目の前にいることが大切なのではないでしょうか。

例えば、今のセクハラの議論を見ていると、子どもに「いじめをやめろ」と言えるのだろうかと思います。私はこの財務次官の会見を見たとき、ある中学でいじめによる子どもの自殺を受けてその校長が「いじめじゃない」と言っていた状況を思い出しました。もしこの財務次官が女性に投げた言葉を、その方のお子さんが言われたらどうする? その子が飛び降りたらどうする? とお聞きしたいです。

道徳は「大人の価値観を押し付ける」ものではありません。教科書を作った出版社やその話を書いた著者の意向をくみ取るものでもありません。それを題材として、子どもたちが自主的に考え、意見し、互いの意見を聞き合う。それによって大きな学びを得るための授業なのです。

「不登校も特別支援学級もない、同じ教室で一緒に学ぶふつうの公立小学校のみんなが笑顔になる挑戦」。テレビドキュメンタリーを作成したチームが、2012年からの一年を追い続け、作成した映画。映画の冒頭では「全校道徳」と呼ばれる大空ならではの道徳の授業風景が見られる。通常ならば撮影カメラが入ると子どもたちはそこに近づいてくることが多いが、大空で撮影カメラを回しても、生徒たちはまったく動じることはなく、勉強に集中して普段の生活をしていたという。上映会を個別に依頼することも可能だ。(詳しくは映画公式HPをご覧ください)