カンヌ最高賞・是枝監督「万引き家族」が問う、いびつな家族のきずな

「家族を描く理由」を本人も知らない
井戸 まさえ プロフィール

「もっと見えない人々」を描く

是枝作品の特徴は、ケイト・ブランシェットが「invisible people(見えない人々)」と指摘した「社会から排除された人々」の姿を描くだけでなく、その「見えない人々」のさらに先にいる「もっと見えない人々」、実は問題の主体として関わりながらもまるで存在しないかのように(時に責任を免れている人々)をも意識しているところにある。

例えば「誰も知らない」で言えば、当初マスコミの批判は次女を死に至らしめた長男を槍玉に挙げていた。

ところが「お兄ちゃんは優しかった」という報道がなされイメージが変わると、母親バッシングをさらに加熱させる。「鬼のような母親」「男にだらしがない女」。先入観と思い込みで徹底的に母親が叩かれる。

子どもたちを捨てたのは母親だけではない。それ以前に母を、子どもたちを捨てた父親たちがいるはずだ。ところが彼らの存在は見えない、存在しない。invisibleである父親は叩きようがない。「目に見えている者」の中でしか悪者探しはできないのである。

是枝監督は、「見えない人々」の先にいる「もっと見えない人々」の存在というのを映画の中にどう形を見せずに見せるかに心を砕いた。結果、「誰も悪者としては登場させない」と決めた上でキャスティングをしたという。

「あの母親がいなければ子どもは幸せだったのに」と思わせたら負けだと思った、と。

母親役を好演したYOUは実際の事件の母親像とは真逆とも言える。しかし、子どもと一緒にはしゃぎ、幸せな家族の時間を共有していたことを表現するにはこれ以上の適任者はいなかったのだ。

2004年のカンヌ国際映画祭 〔PHOTO〕gettyimages

血縁を超えた共同体

血縁を超えた共同体というのがどういうふうに実現できるのか、そこにどんな可能性があるのか。近年の是枝映画のテーマでもある。

2011年、東日本大震災が起きたときに「きずな」という言葉が安易に使われることについては違和感もあったという。

未曾有の災害だからこそ、血縁を超えて社会がどう支え合うかという方向に向かうかと思いきや、それよりもまず「家族が大事」という方向へ日本社会が閉じていったのはなぜなのか。

 

人は自らのアイデンティティーを揺らいだとき、「縦」の関係、血縁に承認を求める傾向にある。

是枝監督もそういう時期があったという。父親とか、父親の先祖をたどってみたいと、戸籍をくくってその地を旅したこともあった。

つながりの根拠になるものが、今現在は血縁以上のものがない。だからこそ、そこにみんなが何かを求めてしまう。

一方で、本来血縁のない疑似家族を形成していくのは「横」のつながり、共に過ごした「時間」やそこで培った「情」である。

縦と横は並立するようでそうではない。「血より時間だよ」とは言い切れないのはなぜなのか。どんなに共に時間を過ごしても、一瞬にして「血」は「時間」や「情」を超える時がある。