私がその日、ブルーバックス編集長に「大目玉を食らった」理由

「物理学白熱講義」誕生秘話
山田 克哉 プロフィール

「アサヒグラフ」1952年8月6日号の衝撃

終戦から20年足らず、当時はまだ1ドル=360円の固定相場制が敷かれており、海外へと渡航する民間人は、大企業の経営者など、ごく一部に限られていた。そのような時代に、なぜ私のような若輩者が海を渡ることになったのか?

話は、1952年に遡る。私はまだ、小学校6年生だった。

その年の8月、朝日新聞社が発行する「アサヒグラフ」の8月6日号が、「原爆被害の初公開」と題する特集を組んだ。誌面は、被爆者たちの姿を捉えた写真で埋め尽くされていた。敗戦から7年、その記事はおそらく、広島・長崎に原子爆弾が投下されて以降、多くの一般国民にとって初めて目の当たりにした被爆者たちの実相であったことだろう。

クラス担任の先生がある日、そのアサヒグラフを私たち生徒に見せてくれた。手持ちの1冊を、全員に回覧するかたちで順々に目を通させてくれたのだが、誌面を覆う幾多の凄惨な写真を見たときのショックは、今でもはっきりと脳裏に焼きついている。

「原子爆弾とは、こんなにもむごたらしい仕打ちを人々に与える兵器なのか……」

以来、私の頭から、原子爆弾のことが離れなくなってしまった。

高校で物理を学び、原爆の原理をいくらか知るようになってからは、「原子爆弾はいったい、どのようにしてあのような凄まじい威力を発揮するのか?」という疑問を抱くようになった。大学生になったある日、級友から受けた1つの誘いが、その後の私の運命を決定づけることになる。

原爆ドーム
少年時代に受けた原爆の衝撃(写真は現在の原爆ドーム、photo by iStock)

「神秘的な光」に魅せられて

「僕の兄貴が茨城県・東海村にある日本原子力研究所に勤めているんだ。その兄貴から、『春休みに見学に来ないか』といわれてるんだけど、君も一緒に行くかい?」

一も二もなく同行した私の目を強く惹きつけたのは、同研究所内に設置された「研究用原子炉」であった。研究用原子炉とは、その名のとおり研究目的で造られた原子炉である。実用原子炉とは異なり、発電用に使われることはない。「核分裂反応」の起こる「炉心」が水の中に入っているために外部から丸見えで、「スイミングプール型原子炉」とよばれることもある。

私たちが見学に訪れたその日、主任研究員を務めていた友人の兄君は、原子炉が臨界に達するプロセスを実際に見せてくれた。臨界とは、核分裂反応が連鎖的に生じ続ける状態である。原子炉が臨界に近づくにつれて、炉心近辺の水からは、じつに神秘的な、淡い青紫色の光がサーっと広がっていくのが見えた。この現象は当時、ソヴィエト連邦の物理学者だったチェレンコフが発見したことから「チェレンコフ効果」とよばれている。

このチェレンコフ効果による青紫色の光を目撃して、なんとも表現しようのない自然の神秘に触れたような感慨を覚えた私は、その瞬間に決意を固めたのだった。

「よし、アメリカに行って原子力工学を勉強しよう!」

若者特有の突飛な思いつきと呆れられるかもしれない。だが、日本初の商業用原子力発電所である東海発電所が営業運転を開始するのは1966年7月のことであり、当時の日本の原子力技術は未熟な段階だった。加えて、原子力工学科を設置している大学も限られていた。

こうして私は、テネシー大学工学部原子力工学科へと留学することとなったのである。同大学で原子炉理論を学び、原子力工学で修士号を取得しようとする頃、「近い将来、身につけた知識を活かして原子爆弾に関する啓蒙書を書いてみたい」という強い衝動にかられた。無事に原稿が仕上がったら、それは必ず、ブルーバックス編集部に投稿しようと決めていた。

チェレンコフ効果
チェレンコフ効果(写真 Argonne National Laboratory〈CC BY-SA 2.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0)〉 ウィキメディア・コモンズより)

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