いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心

だから「いじめ自殺」が起きてしまった
内藤 朝雄 プロフィール

感動の涙と学校の醜さ

次の事例を見てみよう。

【事例3:ゴーゴー○○子】
 クラスと部活でいじめ被害にあっていた少女(中学一年生)が、ビルから飛び降りて自殺した。学校、教委、市、加害者の親は結託して隠蔽工作を行い、遺族へのこころないデマを地域にふりまいていた。学校関係者ぐるみ、自治体ぐるみのいやがらせはひどいものだった。
 いじめにかかわっていた部活集団は、加害者と結託したきわめて卑劣な行為をしつつも、亡くなった被害者の名前を使って、これみよがしに「ゴーゴー○○子」と感動的なエールのかけ声をあげていた。その中にはいじめ加害者も含まれていた。教頭は、隠蔽利益が一致した加害生徒たちを焼き肉屋に連れて行くなどして、人情あふれるコミュニケーションをくりかえして一体感をつくり出していた。(遺族からの情報提供)

「ゴーゴー○○子」と焼き肉屋のエピソードは、学校のものになった感情がどのようなものか、よく示している。

彼らは個のやさしさという基準からは怪物といってもよい。しかし、群の「やさしさ」という意味では、本当に「やさしい」のである。やさしさという感情そのものが、個人のものではなく、学校のものになったのである。

〔PHOTO〕iStock

次に、学校のものになった涙について事例を挙げる。

【事例4:「ずいぶん醜いな」学校の醜さを極限的にあらわす女子中学生の群れの涙】
 国際政治学者の三浦瑠麗は中学生のとき、部活のなかでいじめられていた。教員は「和解」のための話し合いの場を設けた。それは、女子全員対一人の「人民裁判みたいなもの」だった。
 三浦は回想する。
 「一人ひとり私に対する不満を順番に言っていくんです。で、言い終わるたびに一人ずつワーッと泣くんですね」
 「自分で言って、自分で感動して泣くみたいな。どんなにひどかったか、私たちの気持ちをどういう風に理解しなかったか」と。
 その内容は、「瑠麗ちゃんがテストの答案を返してもらって嬉しそうにしてた。私はテストの点が悪くてその日一日落ち込んでいて、『ヤバイ、こんな点とっちゃったよー』と笑いながら言ったら『そうだねー』と返したとか、男子にちやほやされていた」といった細々としたものだった。
 そのとき中学生の三浦は、「これが人々の心を洗い流してくれる感動の涙っていうやつなのか。ずいぶん醜いな」と思った。
 「そこで涙を流すようなカタルシスを求めようとする様を私は醜いと思ってしまった。とんだ茶番だと思いました」
 (「三浦瑠麗が語る『感動の涙を醜いと思ってた』中学時代――国際政治学者・三浦瑠麗さんインタビュー#2」『文春オンライン』2018年4月3日)

これは、【事例1・他罰的な子へのいやがらせ】のところで論じた「みんなで共に生きる」涙である。学校の集団生活で求められるのは、このような習性である。

学校は、やさしさも、食べることも、躍動感のある身体運動や声、笑い、涙、叫びも、服装やしぐさも――要するに、人が生きることのすべてを、「かかわりあい、まじわりあって、ともに生きる」学校のものにしようとする。

この、全人的な集団教育の奴隷制(共同体奴隷)は、古代ローマ人が奴隷に石切場の労働をさせればよい、というようななまやさしいものではない。学校の奴隷は生きていることのすべてが、魂の奥深くまで、学校のものにならなければならない。そして、こころからよろこんで学校のものにならなければならない。

つまり、学校の集団生活では、あなたが存在すること自体が全体のものであり、「おのおの全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和」(『国体の本義』)でなければならない。

 

このようなタイプの「全体」は、国家であることもあれば、学校や会社のような中間集団であることもある。筆者は、国家に焦点をあてる従来の全体主義概念を拡張し、中間集団全体主義という考え方を提唱した(『いじめの社会理論』、『いじめの構造』)。中間集団全体主義という観点から見れば、日本は学校と会社を基盤とする全体主義社会だ。

人間のすべてを奥深くまで全体のものにしようとする傾向を、全体主義の貫通性という。この意味で日本の学校は、全体主義のエッセンスをなによりもくっきりと示す。

全体主義の核心部は単なる独裁ではない。それは個に対する全体の圧倒的優位である。圧倒的優位は、個に対する余儀ない貫通性(浸透性)の深さによって現実のものになる。

全体主義は、一党独裁、秘密警察、しつこい集合的イベントへの動員といったしくみを社会にはりめぐらすことが多い。

だが、一党独裁や秘密警察などのしくみは、単なる独裁政権でもありふれた現象である。

全体主義と単なる独裁を区分する基準は、一人ひとりの人間存在を変更する集合的イベント(学校行事のようなもの)への深い動員が日常生活をおおいつくす度合いである。

全体主義は人間を魂の底からつくりかえ続け、そのプロセスのなかから、個を超えた高次の生命(集合的生命)として生み出されるものだからだ。